レベルが高いな、笑い
ストレート、直球勝負、それぞれの立場で・・・
国民皆保険 => 社会保障よりも、健康に働いてもらう方が経済は上向くはず
雇用問題 => ブッシュ政権の悪政で、雇用が悪化した。徐々に、回復し始めた。60万人の雇用を創出した(バイデン)
金融危機対策 => 規制は必要、とにかく、マネーゲームよりも、公正な投資で実体経済をアップする手立てが必要、時間を要するはず、急激な果実を狙うべきではない
最大の見どころは?
女の戦いだった・・・
リベラル派 V.S. リパブリック派
リベラル派はアフガン政策を批判、介入し過ぎ
リパブリック派はレーガノミクスを主張
---Wiki
レーガノミックス(Reaganomics)とは、レーガン大統領がとった一連の経済政策である。
概要 [編集]
レーガン大統領の一期目は前政権から受け継いだ
スタグフレーション状態の
経済の回復が課題であった。政権は
インフレと
失業に注目した。レーガンの
経済政策は減税による供給面からの経済刺激を主張する
サプライサイド経済学に基づいている。経済学者の多くは、減税を経済の需要面から刺激する政策と考えるが、サプライサイド経済理論支持者は、供給面においてはるかに大きな効果があると主張した。
ジョージ・H・W・ブッシュは当初、副大統領就任前にこの経済政策を「
呪術経済政策(ブードゥー・エコノミー)」と呼び揶揄したが、すぐにレーガノミクスとして知られるようになった。急激な軍事支出の増加と並行して行われた減税は、巨額の財政赤字と累積債務の劇的な増加をもたらし、その結果、米国の負債は後任のジョージ・H・W・ブッシュ就任時にはレーガン就任時と比較しておよそ200%増加していた。レーガンの支持者は、大統領が年間予算案を提出するが実際には支出法案承認は下院でされることを論拠に、レーガンの政策が負債増加の排他的な原因ではないとする。
一方でこの財政赤字は税収増大によってわずかに相殺された。支持者の中にはサプライサイド経済学の租税政策の成功がこの要因であると考える者がいる。
より小さく出しゃばらない政府(
小さな政府)を目指すという彼の頻繁な宣言とは裏腹に、連邦支出の水準および官僚政治の肥大化が彼の政権の間に進んだという主張もある。
展開と帰結 [編集]
レーガノミックスの主軸は、減税、歳出配分転換、規制緩和とインフレ退治であった。
- 減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。
- 福祉予算などの非国防支出の歳出削減により、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカを復活させる。
- 規制を緩和し投資を促進する。
- 金融政策によりマネーサプライの伸びを抑制してインフレ率を低下させる。
この政策群の理想的展開は、「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、福祉予算を抑制して歳出を削減する。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。結果、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する。」というものである。
実際の展開は想定とはかなり異なった。1970年代末からすでに金融政策はインフレ退治に乗り出しており、政権発足時にはかなり高金利になっていた。そこに、減税と歳出拡大をセットにした大型の財政政策が発動されることになったため、高金利はいっそう拍車がかかった。この高金利は民間投資を停滞させると同時に日本などの外国資金のアメリカへの流入を促進し、その為替レートをドル高に導いた。ドル高は、輸出減退と輸入増大をもたらし、インフレ率の低下へつながった。財政赤字の増大はこのようにして民間投資の犠牲と経常赤字によってバランスされインフレーションへはつながらなかった。一方で経済成長は低迷し、失業者は1000万人を越えて戦後最悪の経済状況となった。
1982年中にはインフレ率の低下から高金利政策は解除段階に入った。1983年には景気回復が始まったが、それは減税と歳出拡大という財政政策を受けた消費の増大(
乗数効果)が主因であった。なお、税率を引き下げていたためこの経済回復の最中でも歳入はそれほど増加せず、SDIに代表される軍事歳出拡大に伴って財政赤字が拡大した。ドル高の持続と景気回復によりさらに経常赤字が拡大した。経常赤字が貯蓄投資バランスの不均衡を受け止めたため、また
原油価格の大幅の下落という要因も加わり、インフレも顕在化することは無かった。なお、レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」として、政策の効果を主張した。
1984年には失業率の低下や景況感の回復がさらに強まったが、経常赤字のますますの拡大は日欧に莫大な経常黒字をもたらし諸外国へインフレを輸出しているとの批判を浴びることになる。
1985年秋に、
プラザ合意が形成され、為替相場は一気にドル安となった。
以後のアメリカ経済は1990年代初めまで輸出増大により経常収支が修正される一方で、国内需要が低迷し財政赤字は記録的に悪化した。
1980年代を総括すると、民間投資の伸びは実質ベースで1970年代を大きく下回り、国内の生産力増大に寄与したとはいえなかった。
企業の投資資金は、高金利による株安から他の企業の買収合併へ向かい、株式ブームを生み出した。なお、株式ブームは1987年の
ブラックマンデーにより終了した。しかし、この株式ブームは
FRBの裁量により深刻な恐慌をもたらさなかったが、このことが
アメリカ経済のFRB・金融政策依存と資産経済化をもたらすことになった。
ブードゥー経済学 [編集]
疑似科学や、
実証性を欠く科学研究を指して
ブードゥー科学と呼び慣わすことが多く、それと同様に根拠の疑わしさを揶揄する目的で
ブードゥーという言葉を使ったと言える。しかしながら、ブードゥーの発祥する
ハイチは世界でも一、二を争う貧しい国であり、その歴史的経緯を辿るならば、この表現は皮肉めいた冗談としても
倫理的に問題がないとは言えない
[誰?]。
関連項目 [編集]
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