立派な黒塗りの車がわきを通り抜けた。外交官ナンバーがついていて、立派な車だったので、おそらく、大使が乗っていた?
アルファ・ロメオの最高級車、あるいは、フォード・ムスタング?


ネットで車のイメージを見たが、該当するのは見当たらない。次回、出会った時には、気をつけて見てみよう。
アンゴラ解放人民運動は、アンゴラの資源を狙うロシア軍と、米軍を追い払った。タフな人民です・・・
アンゴラ内戦は、政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援を受けていたことから、東西冷戦の代理戦争と言われている。
今や、日本国内に、そのような状況が浮かび上がっている。こちらは、6カ国で、暴力の応酬でなくて、言論の応酬で解決しようとしている・・・
そして、国旗とエンブレムとブランドは?


エンブレムとは?
城門に刻む紋章?
ブランドとは?
牛に入れる焼き印?
「肉牛印ペチャパイ焼き印」 マクバウ印?
「ホルスタイン印デカパイ焼き印」 ムムイーラ印?
ただし、これらは希少印、つまり、レアものなので、禁国外持ち出しである・・・
ですよね? ドス・サントス城主?

そして、アンゴラの少年は、木陰で、世界の未来、アンゴラの未来、人類の未来について、考えている・・・
---Wikipedia
アンゴラ共和国(アンゴラきょうわこく)、通称アンゴラは、アフリカ南西部に位置する共和制国家。東にザンビア、南にナミビア、北にコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面している。コンゴ民主共和国を挟んだ飛地のカビンダが存在し、カビンダは北にコンゴ共和国と国境を接する。首都はルアンダ。
ポルトガル語諸国共同体の加盟国であり、アフリカ最大のポルトガル語人口を擁する国である。
正式名称はポルトガル語でRepública de Angola(レプブリカ・デ・アンゴーラ)。通称、Angola。日本語にするとアンゴーラが近い。
公式の英語の名称は、Republic of Angola(リパブリック・オブ・アンゴラ)。通称、Angola(アンゴラ)。
日本語の表記は、アンゴラ共和国。通称、アンゴラ。国名はかつてこの地を支配していたコンゴ王国のンゴラ王に由来する。独立時の1975年から1992年までは正式名称はアンゴラ人民共和国だったが、1992年の憲法改正により現在のアンゴラ共和国となった。
この地域には、1世紀頃から主にバントゥー系のアフリカ人が住んでいた。1482年、ポルトガル人がコンゴ川河口に到着、現地に存在したンゴラ王国内に基地サン・サルヴァドールを築いた。1490年にポルトガルが植民地経営を開始。また、現アンゴラ北西部ザイーレ州には、コンゴ王国の首都ンバンザ・コンゴ(ポルトガル語ではサン・サルヴァドール)があった。ポルトガル人は徐々にアンゴラ内陸部に進出して行き、以降アンゴラはブラジルやウルグアイ、アルゼンチンなど南米への黒人奴隷供給地となった。
20世紀に入り、約40万人のポルトガル人が入植。植民地支配に固執するアントニオ・サラザール政権はアンゴラを手放すまいとして、1951年、建前上は本国と同等なポルトガルの海外県になった。しかし、これは建前に過ぎずこの頃から独立運動が活発化し、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との内戦の末に、宗主国でのカーネーション革命により、1975年11月11日独立した。
しかし独立直後から、ソ連及びキューバの支援するアンゴラ解放人民運動 (MPLA) 、アメリカ合衆国と南アフリカ共和国が支援するアンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) 双方が政府を樹立し内戦状態に。結局MPLAが勝利し、政権を掌握した(アンゴラ国民解放戦線)。
1979年9月、第2代大統領にジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任。アンゴラ政府はソ連など社会主義陣営との結びつきを強め、MPLAによる社会主義一党独裁制を敷いた。しかし、この間もUNITAとの内戦(アンゴラ内戦)が続いたため、多くの人命が失われ、経済は疲弊。さらに戦闘や地雷で負傷してしまった人々も多く発生した。アンゴラ内戦は、政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援を受けていたことから、東西冷戦の代理戦争と言われている。
MPLAは1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定に調印。しかし1992年の大統領選および議会選をめぐる対立から再び内戦に。国連の仲介で1994年11月に和平がなったが、1998年に内戦が再燃した。
2002年2月、UNITAのジョナス・サビンビ議長が戦死。和平機運が高まり、3月15日に双方は休戦で合意した。4月4日に休戦協定が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれた。
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