AH Tokyo 検索

カスタム検索

5/14/2009

鑑真と南京! 南京!




「深く深く心に刻む。この大海を渡ってきた縁を」 - 南京! 南京!


昔、盲目の僧、鑑真は中国から日本に渡ってきて、唐招提寺を建立したはず・・・


特に栄叡は農家出身で重税の厳しさも分かっており、日本の仏教界に行動規範となる「律」が導入されれば、節度ある生き方が美徳とされ、朝廷にも良い影響が広がって善政に繋がり、社会が良くなって欲しいと願った。


すでに鑑真は54歳。さっそく海を渡る準備を進めた。

《6度の渡日大作戦~挑戦と挫折の11年》

この執念はすごいな~~~

仏さまが魂に宿っていたのだろう・・・


---Wikipedia

鑑真(がんじん、鑒真、鉴真、Jiàn zhēn 688年(持統天皇2年) - 763年6月25日(天平宝字7年5月6日))は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。

鑑真と戒律

唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について出家し、道岸、弘景について、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。

仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。

栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。

日本への渡海

最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる。

その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。

748年、栄叡がふたたび大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡がのこされている。

751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう(完全に失明していなかったとする説もある)。

752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使藤原清河らに渡日を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂はひそかに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。

日本での戒律の確立



唐招提寺

754年(天平勝宝6年)1月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。

759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。

関連作品

天平の甍(井上靖)
氷輪 (永井路子)
関連項目 [編集]

戒律
授戒
遣唐使
唐招提寺
お歯黒
戒壇院
香水(こうずい)
新鑑真 - 神戸港・大阪港と上海港を結ぶ国際定期フェリー


///

(出典)

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic25.html


6度目の正直/ニッポンは遠かった!
【 あの人の人生を知ろう ~ 鑑真和上 】

Ganjin Wajyo 688-763.5.6

 


墓所は唐招提寺境内の北側 死の2ヶ月前に制作された、リアルな鑑真和上座像(国宝) 渡航成功率50%以下の遣唐使

唐の僧で、日本律宗の開祖。上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身。701年、13歳の時に父に連れられ大雲寺を訪れた際、仏像を見ているうちに身体の奥底から感動が込み上げてきて出家したという。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。そんなある日、鑑真のもとへ2人の日本人僧侶が面会を求めてきた。

《“名僧”探して苦節10年~栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)》

「戒律」という言葉には2つの意味があり、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。奈良時代初期、日本の仏教界にはまだ公の戒律がなく、僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん僧侶になっていた。朝廷は税収の減少に頭を悩ませていたが、国策として仏教を信奉している以上、僧を弾圧する訳にもいかない。とはいえ“にわか僧侶”たちには仏法を学ぶ姿勢もなく、風紀は乱れまくっており由々しき事態だった。

仏教の先進国・唐では、新たに僧を志す者は、10人以上の僧の前で「律」を誓う儀式『授戒』を経て、正式に僧として認められた。この制度を朝廷は日本に導入しようと画策する。つまり、国家が認めた授戒師から受戒した者だけを僧に公認すれば、一気に僧の数が激減するし、僧侶個々人の質も高くなると考えたのだ。
ところが国内には正式な授戒の仏法を知る者が誰もいなかった。そこで興福寺の2名の僧侶、栄叡と普照が「遣唐使船で渡航し、授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」と勅命を受けた。
当時、遣唐使は文字通り命がけだった。派遣された12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。半分以上が遭難していた。不安はあったが、世の荒廃を憂いた2人は勇気を出して乗船した。特に栄叡は農家出身で重税の厳しさも分かっており、日本の仏教界に行動規範となる「律」が導入されれば、節度ある生き方が美徳とされ、朝廷にも良い影響が広がって善政に繋がり、社会が良くなって欲しいと願った。

733年、2人を乗せた第9次遣唐使は無事に大陸に到着したが、それからが大変だった。唐は国民の出国を禁じており、密出国の最高刑は死罪だった。国法を破ってまで日本に来てくれる名僧など簡単には見つからず、遭難の危険がある渡航には弟子や周囲が反対した。壁にぶつかって行き詰まり、苦悩する栄叡と普照。しかし、もっと大変な知らせが届いた。予算不足で次の遣唐使が来ないというのだ!「あり得ない!」激しく動揺しながらも、とにかく授戒師を探し続ける2人。唐の各地をさすらい、7年目には極度のホームシックから任務を諦めて帰国方法を模索した。それでも踏ん張って9年目に入った時に、2人は過去4万人に授戒を授けてきた名僧・鑑真の存在を知る。鑑真は仏道を究めていただけでなく、貧民や病人の救済など社会活動に力を注ぎ、民衆から大師として仰がれていた。「うがー!もう、この人しかいないッ!」。

鑑真には多くの高弟(こうてい、トップクラスの弟子)がいて、各々の高弟がさらに千人規模の弟子をもっていた。栄叡と普照は最初から鑑真に渡日を懇願したのではなく、高弟の中から誰かを授戒師として遣わせて欲しいと熱望した。2人の叫びに近い思いを聞いて鑑真は強く心を動かされ、弟子たちに渡日の希望者を尋ねた。しかし、弟子達は生命の危険を心配して沈黙する。「ならば、私が行きましょう」。驚き反対する弟子達に鑑真は続けて言う「仏法の為に生命を惜しむことがあろうか。お前達が行かないのなら私が行く!」。師の揺るがぬ決意を聞き、弟子21人が随行することになった。すでに鑑真は54歳。さっそく海を渡る準備を進めた。

ところが!せっかく鑑真という素晴らしい名僧の快諾を得ながら、彼らはなかなか日本へ帰れなかった。隣国の日本があまりに遠かった!唐の第6代皇帝玄宗は鑑真の人徳を惜しんで渡日を許さなかった。必然的に、出国は極秘作戦となる。東シナ海を越えるのも命がけだが、出国するまでがまた大変だった。

《6度の渡日大作戦~挑戦と挫折の11年》

・第1回…743年(55歳)。上海南方の霊峰・天台山に参詣するフリをして日本に進路をとる作戦を立てるが、渡航を迷っていた弟子が密告。しかも「日本人僧の正体は海賊」というトンデモ情報を港の役人に流した為に、栄叡と普照は検挙され4ヵ月を獄中で過ごす。
・第2回…744年(56歳)。頑丈な軍用船を購入し、仏像や仏典を山ほど積み込み、彫工、石工など85人の技術者・職人を乗せて出航!→暴風雨で遭難。船体を修理し再び外洋に挑むも座礁。寧波(ニンポー)付近へ無念のリターンとなった。
・第3回…744年。態勢を整えて再び出航しようとしたところ、鑑真の渡日を惜しむ何者かの密告で、栄叡が再び投獄され失敗。鑑真は栄叡を助ける為に奔走し、最終的に栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。
・第4回…744年。長江近辺からの出航は監視が厳しく困難となり、福州(台湾の対岸)から渡航しようと南下する。しかし、またしても弟子が鑑真を引留める為に当局へ密告。鑑真は官憲に捉えられ揚州まで送還される。一方、栄叡と普照は逃亡し南京以西の内陸部に潜伏する。
・第5回…748年(60歳)。ブラックリストに載っていた栄叡たちは依然監視下にあったが、隙をついて出航する。この時は極悪巨大暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流し、遠く海南島(ベトナム沖)まで流されてしまう。そして悲惨なことに、揚州に引き返す途中で、過酷な旅と南方の酷暑で体力を消耗した栄叡が他界する。遣唐使船で大陸に来て15年、ここまで頑張って来たが、栄叡はついに祖国の地を踏めなかった。親友・普照や鑑真は彼の死を心の底から悲しみ、鑑真自身もまた眼病で失明してしまう。
・第6回…753年(65歳)。ついに日本から20年ぶりに第10回遣唐使がやって来た!日本側は帰国便で鑑真と弟子5人を非合法で連れ出す作戦に出る。遣唐使船は4隻600人の大船団。「1隻でも日本にたどり着ければ仏法を伝授できるように」と鑑真らは別れて乗船した。ところが出航直前になって、唐側官憲の厳重な警戒を恐れた遣唐大使が「やばい!絶対バレる」と鑑真らを下船させてしまう。だがこの時、副大使が独断でコッソリ自分の船に鑑真一行を乗せた(お手柄!)。
11月16日出航。沖縄、種子島と東シナ海を北上していく。嵐に遭遇して大使の船は南洋に流されたが、副大使の船は持ちこたえ、1ヶ月後の12月20日に鑑真と普照は薩摩の地を踏んだ。第1回の密航計画から11年、6度目の正直で悲願が達成された。

翌754年2月4日(66歳)、鑑真は大阪難波、京都を経て平城京に到着!行く先々で熱烈な歓迎を受けた。鑑真は朝廷から仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命される。4月、東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440名に国内初となる授戒を行なう。755年(67歳)、常設の授戒施設となる東大寺戒壇院を建立。戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨、米粒ほどの大きさ)が埋められており、ここで250項目の規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認めた。これで乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善された。

…だが、鑑真と朝廷の蜜月はこの時がピークだった。鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりだった。彼は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた。一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知る。あの命をかけた渡航や栄叡の死は何だったのか。「こんなハズでは…」既に70歳。海を渡って唐に戻る体力はなかった。

759年(71歳)、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進してくれた。鑑真は私寺となる『唐招提寺』を開き戒壇を造る。「招提」は“自由に修行する僧侶”という意。この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされなかったが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来た。鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組んだ。
※同寺の敷地から鑑真の時代の食器が発掘され、そこには位のない一般僧侶を表す「大衆」の文字が書かれていた。

763年3月、弟子の忍基は日本初の肖像彫刻となる鑑真の彫像を彫り上げた。その2ヵ月後、鑑真は永遠の眠りにつく。西に向って結跏趺坐(けっかふざ、座禅)したまま息を引取ったという。享年75歳。来日から10年、唐招提寺創建から4年目の春だった。中国にいた54歳のあの日、2人の日本人僧侶が面会に来るまで、異国の私寺に骨を埋めることになるとは想像もしなかっただろう。今でも鑑真の弟子達は唐招提寺から全国へ布教の為に巣立っている。1250年前、こんな聖者が日本にいた。


※鑑真一行が乗り合わせた第10回遣唐使の帰国便4隻はまさに運命の分かれ道。大使の旗艦は南方マレー半島まで暴風に流され、漂着後は地元民と全く言葉が通じず、乗船者約200人の大半が殺された。
※帰国後の普照は東大寺、西大寺に入る。旅をしていた時の辛い飢餓体験からか、759年(帰国6年後)、旅人の為に都郊外の街道に果樹を植えるよう朝廷に進言している。
※761年、九州の大宰府・観世音寺と東国の下野国(栃木県)薬師寺にも戒壇が置かれ、日本の東西で受戒が可能になった。
※2010年まで唐招提寺は本尊を安置する金堂の解体修理が行なわれている。
※鑑真が中国で住職を務めていた揚州・大明寺は1966年に文化大革命で破壊され僧侶は追放された。その14年後、奈良の唐招提寺から国宝・鑑真和上座像が荒廃した大明寺に「里帰り」として運ばれた。この彫刻を拝観する為に21万人が訪れ、これを機に100名の僧侶が大明寺に戻って、立派に再建された。鑑真は千年以上経っても、まだ仏法に貢献しまくりだ。

0 件のコメント:

The Definition Of Art Harbour Blog



The Definition Of Art Harbour


Virtual International Trade Harbours Of Art


Opening Anniversary Date: December 1, 2006

Language: Multi Language


Each harbour can export the works toward the virtual world.

People and organization can import the works from all over the world.


Now,Item: Works on Art Activities that are expressed with Photos and Explanations etc.

Export Method: Each Harbour put the Works onto this blog

Import Method: People and Organizations accsess this blog

Order Method: People and Organizations put some comments about the Works onto this blog.


In the future, we will need transportation including trains,airplanes,ships, cars, buses etc.

in order to export and import people, goods etc. ?


Art Harbour


アート・ハーバーとは


アートのバーチャル国際貿易港


開港記念日:2006年12月1日

言語:マルチ言語


各港は、バーチャルな世界へ向けて、作品を輸出できる

人や組織などは、バーチャルな世界から、作品を輸入できる


現時点輸出品目: アートに関する活動などを「写真と文などで表現した作品」

輸出方法: 各港で作品をこのブログに書き込むことで、輸出したものとみなす

輸入方法: 人や組織が作品をこのブログで参照することで、輸入したものとみなす

注文方法: 感想などをコメントに入れることで、注文したものとみなす


将来、、、列車、飛行機、船、車、バスなどを利用して、リアルな人や物が輸出入できる?


アート・ハーバー

Multi Language

現時点では?


ブログは日本語ベース


Google Translatorで、各国語へ、変換




そして、現場で、リアルなコミュニケーションは?


英語ベースで、現地語がお愛想・・・


こんな感じかな?


Aoyagi YoSuKe

Art HarbOur


The Gaiaと各ハブは?


英語がベースで、Google Translatorで、各国語へ・・・

Copyright and Responsibility of AH Shimokitazawa blog



Copyright:


Each manager or each member of Each AH Local must independently handle Copyright.


Each may insist on Copyright or discard Copyright independently.


Copyright depends on each manager or each member.


Responsibility:


Each manager or each member of Each AH Local

must independently have the resposibility on the posted works.

Art Harbour Shimokitazawa


コピーライト:

各アート・ハーバーのマネージャーまたはメンバーは

各々でコピーライトの取り扱いをしなければならない。

コピーライトを主張するか破棄するかは各々に任される。


責任:


各アート・ハーバーのマネージャーまたはメンバーは

各々が投稿した作品に関して責任を持たなければならない。


アート・ハーバー 下北沢


Posting Rule - 掲載ルール




Introducing People, Works, Shops etc. related to Art Harbour as a spot ad.


As a general rule, the details such as map, price should be in the Official Sites related to the ad.

Each ad may contain the Official Sites' URL related to the ad.


Restriction: The Number of Photos is within 6(basically 3). about 640x480 pixel


Ad Size: Within about 2 standard printing papers.


Example: Spot ad. , Flyer, Live Report, Poem, Short Story, Illustraltion, Photo, Paintings etc.


Art Harbour Shimokitazawa



アート・ハーバーに関連した人、作品、店などをスポット広告として紹介する。


原則として、地図や価格などの詳細は広告に関連したオフィシャル・サイトに掲載する。


各広告には関連オフィシャル・サイトのURLを掲載しても良い。


制限:写真など6枚以内(基本は3枚) 1枚に付き640×480ピクセル程度


サイズ:標準プリント用紙(A4)約2枚以内


例:スポット広告、フライヤー、ライブの報告、詩、イラスト、絵など



アート・ハーバー 下北沢