お前らは、こいつの傀儡。
つまり、木偶人形だよ!!!
経歴 [編集]
生い立ち [編集]
憲兵へ [編集]
士官候補生第24期として卒業(同期には
岸田國士がいる)した当初は
歩兵科であったが、1918年7月
中尉の時に転科し、
憲兵中尉となる。歩兵から憲兵への転科は膝の怪我が理由とされ、転科に迷っていたところを上官
東條英機と相談し積極的な意見を受けて憲兵となったという。この時
朝鮮楊州憲兵分隊長を拝命する。 その後、
憲兵司令部副官・
憲兵練習所学生の後、1921年6月憲兵大尉に進み、市川憲兵分隊長を命ぜられる。翌年1月渋谷憲兵分隊長に移り、大正12年8月から麹町憲兵分隊長を兼ねる。なお、東京憲兵隊本部で甘粕の給仕を務めていたのが後に
政治家となる
福家俊一である。
甘粕事件 [編集]
1923年9月1日に起きた
関東大震災のどさくさに乗じて、9月16日、東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕は
アナキストの
大杉栄・
伊藤野枝とその甥・橘宗一(7歳)の3名を憲兵隊本部に強制連行の後、虐殺し、同本部裏の古井戸に遺体を投げ込むという、いわゆる
甘粕事件を起こした。
事件では憲兵や陸軍の責任は問われず、すべて甘粕の単独犯行として処理され、同年12月8日禁錮10年の判決を受ける。軍事法廷において甘粕は「個人の考えで3人全てを殺害した」、「子どもは殺していない。菰包みになったのを見て、初めてそれを知った」とたびたび証言を変えており、共犯者とされた兵士が「殺害は憲兵司令官の指示であった」と供述しているなど、この結論に現在でも疑義を挙げる人は多い。「高貴な方」の罪を被ったものであった(実際には
秩父宮雍仁親王が連隊長を務める連隊の犯行だった)、という説もある
[要出典]。なお甘粕は、「(思想は理解できないが、)大杉は人間的には立派だった」と述べているが、甘粕本人も後に同様に評されることとなる。
後の満州時代、甘粕はこの事件に触れ、「あの事件は“俺がやった”ということになっている」と言ってニヤッと笑ったという証言もある。ただし、この発言について彼の真意は不明。
満洲国へ [編集]
1926年10月に出獄し予備役となり、1927年7月から陸軍の予算で
フランスに留学する。フランスでは画家の
藤田嗣治等と交流があったと言われる。
その働きを認められ
1932年の
満州国建国後は、民政部警務司長(警察庁長官に相当)に大抜擢され、表舞台に登場する。在満
右翼団体満州青年連盟を母体に満州唯一の合法的政治団体
満州国協和会が創設され、その中央本部総務部長に就任。1938年、満州国代表団(修好経済使節団)の副代表として公式訪欧し、
ムッソリーニとも会談。
1939年、満州国国務院総務庁弘報処長
武藤富男と総務庁次長
岸信介の尽力で
満洲映画協会(
満映)の理事長となる。満映のある
新京の日本人社会では「遂に満映が右翼軍国主義者に牛耳られる」、「軍部の独裁専横人事」と恐れられたが、甘粕は紳士的に振る舞い、満映の日本人満人双方共に俳優、スタッフらの給料を大幅に引き上げたことから満映内での評判は高まっていった。
満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし甘粕はその硬骨漢ぶりと言動故に
関東軍には煙たがられ、甘粕事件のイメージもあり、士官学校の恩師である
東條英機という例外を除いては、むしろ冷遇されており、その影響力はあくまで日本人官僚グループとの個人的な付き合いが源泉となっていたという(
根岸寛一の証言)。
甘粕はまた、文化人でもあり、
ドイツ訪問時に当時の最新の映画技術を満州に持ち帰った。それは後に戦後、
東映の黄金期を築くことにもなった。また、
朝比奈隆が指揮をしていたハルビンオーケストラの充実にも力を尽くした。
敗戦直後の1945年8月20日早朝、監視役の大谷・長谷川・赤川孝一(作家・
赤川次郎の父)の目を盗み、隠し持っていた青酸カリで服毒自殺(この現場には映画監督
内田吐夢も居合わせた)。満映のスタッフは皆で甘粕を看取り、慰霊祭も行われた(一説によれば、新京で行われた葬儀には甘粕を慕う日満の友人三千人が参加し、葬列は1キロを越えたという)。
性格 [編集]
森繁久彌は甘粕について「
満州という新しい国に、我々若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金を儲けようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった 」と証言している。
武藤富男は、「甘粕は私利私欲を思わず、その上生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら…と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった」と述べている。
李香蘭こと
山口淑子が、「満映を辞めたい」と申し出た際には「気持ちは分かる」と言って契約書を破棄したが、彼女の証言によれば「ふっきれた感じの魅力のある人だった。無口で厳格で周囲から恐れられていたが、本当はよく気のつく優しい人だった。ユーモアを解しいたずらっ子の一面もあるが、その度が過ぎると思うことも度々だった。調子に乗ると水炊きの鍋に火のついたタバコを入れたり、周囲がドキリとするような事をいきなりやった」とのこと。
権力を笠に着る人間には硬骨漢的な性格を見せ、内地から来た映画会社の上層部を接待した席で彼らが「お前のところの女優を抱かせろ」と強要した際に、「女優は酌婦ではありません!」と毅然とした対応をしたという。
これら周囲の人間の好意的な証言がある一方で、ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた。
謀略の資金源 [編集]
根岸寛一の証言によれば、「大半は満映からでていた」という。
辞世の句 [編集]
「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」 自分の人生と日本や満州国の運命を重ねて詠んだ歌と思われる。
甘粕正彦を演じた人物 [編集]
甘粕正彦が登場する作品 [編集]
- 映画
- 小説
- 漫画
- 戯曲
関連項目 [編集]
参考文献 [編集]
外部リンク [編集]
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