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12/17/2009

氏(うじ)と姓(かばね)

氏と姓

お家制度の根本なのかな?

姓とは日本の源平に相当し、氏とは日本の佐竹千葉伊達などに相当する。


氏 => 公家


姓 => 武家


なのかな?


今気づいた。氏名と、姓名があるな・・・


仮に佐竹義宣千葉常胤伊達政宗を姓で呼べばそれぞれ源義宣・平常胤・藤原政宗となる。朝鮮では源平藤原に相当する姓のみが有り、佐竹・千葉・伊達などに相当する氏が無かったので、これを創らせた。よって創氏と呼ぶ。



















丁度明治初期に氏の無い百姓に氏を創らせた政策を朝鮮にも強制したものである。


これにより、金は金田、金村、金山、金本、李は岩本、朴は新井といった具合に改姓され、戦後も通名として使われるようになる。また、金海、清原、光山など、本貫をそのまま名乗るケースもあった。




多くの欧米諸国では、結婚すると男女のどちらかが氏(ファミリー・ネーム)を変えて夫婦で氏を統一する。日本も明治維新後に欧米に倣った。現状では女性が変えているケースが多い。男性が変える場合は、日本では殆どが「婿養子」を意味する。尚、皇族は姓そのものがないので、員数外扱とみなしうる。夫婦で氏を統一するにあたり、氏を変える側は、結婚後の氏のみを名乗る(結婚前の氏の使用を止める)ことになるか、欧米諸国などミドルネームの習慣がある社会では結婚前の氏をミドルネームに付け加えることもある。








1. 王の称号

」の称号は、もとは中国を統べる君主を指したものである。代には天下を統治する唯一の天子として王の称号があったが、戦国時代に入ると王の臣下であるはずの諸侯が争って「王」を自称したため、王が乱立した。その後、中国を初めて統一した(紀元前221年秦王政は、価値を落とした王号に代わって新しい称号「皇帝」を使用した。その後、が成立する(紀元前221年)と王号は皇帝の臣下へ与えられる称号(諸侯王)として定着した。
日本に関連する王号の初出は、漢の光武帝奴国の王に賜綬した金印に見える「漢委奴国王」である。次いで、『後漢書』安帝紀の永初元年(107年)の記事に初めて「倭国王」の語が見える。安帝紀に「倭国王帥升等」とあるように、倭国王は地域の小国家ではなく、いくつかの地域国家連合の首長としての「倭国の王」と考えることができ、これは倭国の成立を示すものではないかとされる。それからやや下った時代の卑弥呼もまた、によって倭国の統一的な長、「倭王」と認知されている。
大和言葉では「きみ」がこの概念に相当するものとされ、字訓となった。


---Wiki

創氏改名(そうしかいめい)は、大日本帝国において朝鮮総督府本籍地を朝鮮に有する日本臣民(以下朝鮮人という)に対して実施した政策のこと。昭和十四年制令十九号で定められた「創氏[1]」は義務であったが、昭和十四年制令二十号で定められた「改名」は任意であり、手数料を取られた。

























概説 



創氏改名の法院公告、仮名ハングル漢字を混用する。(日韓併合
創氏とは、夫婦別姓制を採っていた朝鮮の戸籍に対して家族単位の氏を作成したことである。朝鮮では「同姓娶らず」の慣習があり、同じ姓=出自=家系の同じ出身地域の人とは結婚できない。これを同姓同本不婚と言い、大韓民国建国後も1997年にようやく廃止されるまで残されていた。当時この慣習を続けられるように朝鮮特有の民族名である本貫を残したままを新たに創るという形にした。姓とは日本の源平に相当し、氏とは日本の佐竹千葉伊達などに相当する。仮に佐竹義宣千葉常胤伊達政宗を姓で呼べばそれぞれ源義宣・平常胤・藤原政宗となる。朝鮮では源平藤原に相当する姓のみが有り、佐竹・千葉・伊達などに相当する氏が無かったので、これを創らせた。よって創氏と呼ぶ。丁度明治初期に氏の無い百姓に氏を創らせた政策を朝鮮にも強制したものである。なお、朝鮮と同時期に同様な政策が採られた台湾では同姓不婚の慣習が無かったため、創氏はせず、単に改姓名が行われた。創氏には「設定創氏」と「法定創氏」があり、1940年2月11日から8月10日までの半年間に届出されたものが「設定創氏」で、届出の無かったものについては家長の姓(朝鮮風であれ日本内地風であれ、その時点での姓)を氏としたものが「法定創氏」である。「設定創氏」では、内地風の氏を名乗ることは認められたが、姓(朝鮮風の氏)を氏として名乗る場合は自分以外の姓は認められなかった。
改名とは、戸籍上の改名手続きを法制化した物で実施期間の定めは無く、任意であったため創氏とは違って手数料が必要であった。しかし、創氏と同時に法制化されたために、内地風の創氏した場合にそれに合うように改名することも可能となった。
また、これと同時に従来の朝鮮法では、父系社会を保つために禁止されていた婿養子制度も導入された。これも創氏改名に含むこともある。
設定創氏と改名は、当初(1940年2月)任意による届出制であったが、4月の道知事会議で「きたる7月20日迄に全戸数の氏届出を完了する様特段の配慮相成りたし」などの訓示があり行政側が推進することとなり、4月を境に設定創氏した戸数は急上昇に転じた1。そして、最終的には8割程度の戸数が設定創氏を行った。しかしながら、朝鮮に在住していた朝鮮人で改名した者の割合は9.6%に、日本内地に在住していた朝鮮人で設定創氏をした者の割合は14.2%にとどまっている。さらに後述の通り、創氏改名後も朝鮮の姓を名乗り続けた朝鮮人も多く、創氏が義務としては徹底されていなかったことが窺える。
これにより、金は金田、金村、金山、金本、李は岩本、朴は新井といった具合に改姓され、戦後も通名として使われるようになる。また、金海、清原、光山など、本貫をそのまま名乗るケースもあった。


総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」 

1909年、大韓帝国は日本の指導に基づき民籍法を制定し、近代的戸籍の整備を開始した。女性については父姓と続柄・年齢などだけを記載するなど、朝鮮の慣習と衝突しないようにしたため、整備が終了したのは併合直前の1910年4月であった。この時一部の朝鮮人が日本内地風の姓名で届けを出すなどして混乱が生じたとして、当時の朝鮮総督府は1911年11月1日、総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」などの通牒によって、「内地人ニ紛ハシキ姓名」を許可しないこととし、出生届などでも内地風の名前を届けることに厳しい制限をつけた。

創氏改名政策の目的 

この様に大部分の人が設定創氏を行った事については以下の2つの見方がある。が、政策の目的については定説はまだ存在しない。

強制説 

日本の一定数の歴史学者や関連する評論家知識人たち、韓国の多くの論者、北朝鮮当局等は、朝鮮姓を奪われ、「日本人のような」氏を名乗るよう強制された例が少なからずあったと主張している。 特に日本のほとんどの歴史教科書においては、この主張がほぼ定説であるという立場から記述されている。 彼らによると日本の朝鮮総督府は1939年11月、「朝鮮人の氏名に関する件」(創氏改名令)を公布。これを足がかりに、日本氏名を名乗るように強制したという。在日コリアンの多くが今でも通名を持っていることはその名残りとも言える。
設定創氏をしないものに対して地方機関が行政的な強要、嫌がらせを行った結果であるとする見方も存在する2。このような行為が行われた理由には、単に末端吏員の暴走によるものであったという意見と植民地政府全体の意思であったという意見があるが、いずれも確証を欠いている。

自発的受容説 

朝鮮民事令改正公布(1939年11月10日)に際しての南次郎総督談話 「本令〔朝鮮民事令〕の改正は申す迄もなく半島民衆に内地人式の「氏」の設定を強要する性質のものではなくして、内地人式の「氏」を定め得る途を拓いたのであるが、半島人が内地人式の「氏」を称ふることは何も事新しい問題ではない。」(朝鮮総督府官房文書課編『諭告・訓示・演述総攬』1941年、676 頁)
国内外における日本内地人との差別を回避するために、自発的に創氏改名を受け入れたとする説も存在する。実際には、彼らの言うような日本内地風氏名の強制はしておらず、あくまで戸主の判断に委ねられていたという説である。これは日本内地風氏の設定創氏の届出を行わず、自動的に朝鮮風の朴氏や金氏で法定創氏された人たちが著名人を含めいたことを根拠にしている。具体例として、陸軍中将洪思翊や、半島の舞姫と言われた舞踏家の崔承喜東京府から出馬して、2度衆議院議員に当選した朴春琴、その他多数の朝鮮貴族、道知事を初めとする総督府官僚などをあげることが多い。また李王垠、李鍵公(戦後に桃山虔一として日本国籍を取得)、などの王公族皇族と同様に、戸籍法令の適用を受けなかったため、当然に創氏改名政策の対象ではなかった。
姓名を守るために抵抗し、たたかった例も残っているが、1940年の時点で約80%の人が日本式の「氏名」を届け出た。それでも、日本政府の意図が社会構造の根本的な変革にあると考えた一部の人は、総督府を通じて行われた日本政府の度重なる呼びかけに最後まで応じなかったとされる。朝鮮風であろうが日本風であろうが、伝統にないファミリーネームである氏を名乗らされることに反発したのである。

その他の説 

最も有名な政策意図解釈に、直接的な契機に注目し、徴兵制の施行を準備するためだったという説がある(宮田節子)が1940年の時点で既に、志願兵制度は導入されていた事から、関連性はないと考えられる。また、欧米近代国家には存在しない、クランネームである姓を朝鮮人が名乗り続けることによって、近代化の障害になることを日本政府および総督府側が懸念したためであるという説もある。また近年、上記の総督府令第124号の存在を根拠とし、朝鮮内外において、日本内地人とは別の国民、民族とみなされ差別を受けていた朝鮮人の要望に基づくものであり、日本はそれを許可しただけであるとの説もある。

父系家族制度と家父長制の対立 

台湾や朝鮮では、父系の血縁による家族制度が伝統的に存在している。なぜ父系の血縁による家族制度が取られているのかというと、儒教の考えで、祭祀を行えるのは父系の血縁に連なる男子のみとされているからである。この背景により、今日でも朝鮮半島や中国・台湾では、結婚しても女性は改姓しない(日本でも、明治年間に夫婦同姓が定められるまでは結婚しても女性は改姓しなかった)。金氏のところに生まれた順子は結婚しても金順子と名乗るわけで、朴氏という男性と結婚したからといって朴順子と名乗ることはない。また、朝鮮では男性が養子になっても、改姓して養父の姓は名乗らないのが普通である(中国・台湾では、男性が養子になった場合、改姓することがある)。
一方、多くの欧米諸国では、結婚すると男女のどちらかが氏(ファミリー・ネーム)を変えて夫婦で氏を統一する。日本も明治維新後に欧米に倣った。現状では女性が変えているケースが多い。男性が変える場合は、日本では殆どが「婿養子」を意味する。尚、皇族は姓そのものがないので、員数外扱とみなしうる。夫婦で氏を統一するにあたり、氏を変える側は、結婚後の氏のみを名乗る(結婚前の氏の使用を止める)ことになるか、欧米諸国などミドルネームの習慣がある社会では結婚前の氏をミドルネームに付け加えることもある。
日本統治下の朝鮮においても、朝鮮人は日本内地人に適用される戸籍法の適用を受けず、朝鮮の慣習家族法に基づく朝鮮戸籍令(大正11年朝鮮総督府令第154号)による戸籍が別途編成されていた。この戸籍のあり方を、日本内地のそれに近しいものに変更したのが、創氏改名政策であったとされる。朝鮮社会を形づくっていた伝統的な門中制度を解体し、日本の家父長制に組替えるためだったという見解もある。
これに対しては、そもそも同じ名前であっても、朝鮮固有の家族法に基づいた姓名と、日本法に基づく氏名は別物であって、氏名を公称として名乗らされたことに問題の本質があるのだという反論がある。それが氏名であればたとえ「朝鮮風」ではあっても「朝鮮式」ではないとする。また、創氏改名と同時に夫婦同氏制も導入されたため、法定創氏された男性であっても、その異姓の夫人は、公称の変更を強制された(朴○○の夫人である金**は本人の意思に関わらず法定創氏後は朴**となる)。

創氏改名後も朝鮮風氏名を名乗り続けた著名人 

創氏改名の経過表 

              出身地・同族名 家族名 個人名
                (本貫・姓)   (氏)   (名)
↑         夫    金海金    (無)  武鉉     ※金海金氏、金武鉉と表す
↑         妻    慶州李    (無)  (無)     ※族譜に女性名は不記載
1909年以前 族譜に記録 (族譜は本家の長老が管理、姓の無い国民も大勢いた)
1909年以降 民籍法制定 (姓の無い国民は日本名を付けたりした。例 東京太郎)
↓         夫   金海金    (無)  武鉉     ※姓名 金武鉉
↓         妻   慶州李    (無)  撫兒     ※姓名 李撫兒
1940年以降 創氏改名 (法律名の変更 姓名→氏名)
↓       ・法定創氏 (日本名を希望しなかった場合)
↓         夫   金海金     金    武鉉     ※氏名 金武鉉
↓         妻   慶州李     金    撫兒     ※氏名 金撫兒
↓       ・設定創氏 (日本名を希望した場合)
↓         夫   金海金    大和   武鉉     ※氏名 大和武鉉
↓         妻   慶州李    大和   撫子      ※氏名 大和撫子
1946年以降 朝鮮姓名復旧令
↓         夫   金海金    (無)  武鉉     ※姓名 金武鉉
↓         妻   慶州李    (無)  撫兒     ※姓名 李撫兒
  • 創氏の申請猶予期限は6ヶ月、改名は期限なし。
  • 子供は夫の本貫及び姓を継承する。
  • 未婚女性の子供は女性の本貫及び姓を継承する。
  • 出身地及び同族名(姓)は結婚しても一生変えることは出来ない。
  • 朝鮮の慣習法では同姓同本(廃止)、8親等以内の血族、6親等以内の血族の配偶者は結婚できない。





















首長
国民主権者


---Wiki


日本国民(にほんこくみん)とは、日本国籍を持つ人(国民)である。日本国憲法第10条及び国籍法(昭和25年法律第147号)において「日本国民たる要件」が定められている。大日本帝国憲法、旧・国籍法(明治32年法律第66号)のもとでは日本臣民帝国臣民などとも言った。原則血統主義を採り、一部帰化による取得を認めている。本項では日本の国籍全般について記す。


















概説 [編集]

日本国籍は、父親または母親が出生時に日本国民であった者、外国籍から帰化した者などが有する。1984年昭和59年)まではいわゆる父系血統主義(父が日本国籍で母が外国籍の場合の子は日本国籍、逆の場合は出生による自動的日本国籍取得は不可であり帰化のみ可)であったが、その後は母系に関する制限はなくなっている。
なお、当該制度変更の際には、旧制度下の一定の期間内(1965年(昭和40年)1月1日から1984年12月31日まで)に生まれた母系の者に対して3年間の時限的経過措置(届出による日本国籍即時取得)がとられた。

国籍の取得 [編集]

出生・準正による取得 [編集]

国籍法では次の3つを出生による日本国籍取得の条件とし、これらの事例では自動取得となる。この他、「準正」による取得は届出により取得できるとしている。
  • 出生の時に父又は母が日本国民
  • 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民
  • 日本で生まれ、父又は母が不明の時

帰化による取得 [編集]

国籍法では帰化により、外国籍であった者が日本国籍を取得できるとしている。帰化には法務大臣の許可が必要で、次の条件を備える外国人でなければ、その帰化を許可することができない事となっている。
  • 引き続き5年以上日本に住所を有する事。
  • 20歳以上で本国法によって行為能力を有する事。
  • 素行が善良である事。
  • 自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によって生計を営む事ができる事。
  • 国籍を有せず、又は日本の国籍の取得によってその国籍を失うべき事(多重国籍の制限)。
  • …日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊する事を企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する政党その他の団体を結成し、若しくはこれに加入した事がない事。
この他に日本人の配偶者や日本国籍をかつて有していた者の子など、上記条件に当てはまらない事例でも許可する事が出来るとする事例がある。また、「日本に特別の功労のある外国人」は上記によらず国会の承認を得て帰化を許可する事が出来るともしている。帰化が許可された場合官報に掲示される。

国籍の離脱・喪失 [編集]

国籍の喪失 [編集]

国籍法では下記の場合は日本国籍を喪失すると規定している。
  1. 「自己の志望によつて外国の国籍を取得したとき」
  2. 出生地主義国で生まれた日本国民が日本国籍を留保する意思を表示しない場合
他に、他の国籍を有する日本国民は、法務大臣に届け出ることによって国籍を「離脱できる」としている(「喪失する」ではない)。

重国籍の制限 [編集]

他の国籍と日本国籍を有する成人の重国籍者は、多重国籍になった時点から2年以内にいずれかの国籍を選択しなければならない。日本国籍を選択する場合は、他の国籍を離脱するか、または日本国籍を選択する旨の宣言をして他の国籍の離脱に努めなければならない。ただし、日本国籍を選択した者が他の国籍を離脱しなかった場合(故意・懈怠・不可抗力など原因の如何を問わない)の罰則規定はない。

国籍の証明 [編集]

日本の場合、国籍法では国籍の取得方法等に関する規定はあるものの、国籍を国家が一元的・直接的に登録・管理・証明する記録制度(他国における国民登録制度に相当するもの)が規定されておらず、戸籍法に基づき作成・管理される戸籍簿市区町村管理)が事実上の国籍登録であり、さらにそれに基づいて国(外務大臣外務省)所掌)より発行される「日本国旅券」(パスポート)が日本国外における日本国民証明の役割を果たしている。

主権者としての日本国民 [編集]

日本国憲法は、日本国民が宣言・規定する立憲主義であり、日本における主権在民を明確に謳っている。「公務員を選定し、及びこれを罷免する権利」(日本国憲法第15条)は日本国民固有の権利としている。

日本国民のみと明記している主な団体等 [編集]

日本国内において、法制度外で日本国民のみ参加が可能であることを明記している主なものは次の通りである。

政党・政治団体 [編集]

その他 [編集]





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Wiki: 氏
は、現代の日本では、おおよそ以下の意味で使われる。
  • 氏(うじ)は、古代氏族を現わすもの。ウヂ。(なお、古代中国における氏は氏 (中国)を参照)
  • 氏(し)は、名前の最後につける敬称。○○氏。古風には、他と同様「うじ」とも読む。
  • 氏(うじ)は、姓氏(せいし)の事。中世後期から明治以前までは、氏とは(セイ、本姓)のことであり、名字(苗字)とは区別されていたが、明治以降、現代の日本では、姓・氏・名字(苗字)は、ほぼ同じ意味で使われている。
コンテンツ:

1. 古代氏族としての氏

日本古代におけるウヂ、うじ)とは、氏族、すなわち、祖先を同じくする親族集団およびそれを中心に結合した土着的・政治的集団のこと。ウヂ、うじ)は、やがてヤマト王権を支え仕える父系血縁集団として、ヤマト王権氏姓(うじかばね)の制により姓氏(せいし)へと転化する。
その中には、
がある。
また、ウヂの後には、を入れて読むことが多い。このは、帰属を表す。例えば「蘇我馬子(そがうまこ)」ならば、蘇我氏「の(に属する)」馬子、源頼朝(みなもとよりとも)ならば、源氏「の」頼朝という意味となる。
また、氏の呼称は自己の属する血縁集団に基づいて名乗るものであり、婚姻によって本来所属していた家族集団とは違う氏に属する家族集団に移ったとしても氏を変えることはなかった。平(北条)政子源頼朝正室になっても「源政子」と名乗らなかったのはこうした考え方による。ただし養子縁組の場合はケースバイケースであった。源師房藤原頼通の養子になっても「藤原師房」とは名乗らなかったが、源義家の四男惟頼が高階氏に養子に行ったときは、高階氏に改姓している。藤原清衡のように、もともと入り婿の形で清原姓を名乗っていたものが、藤原姓に戻したものもある。
平安時代の貴族や武士では、血縁集団を区別するための(ウヂ)とは別に、家族集団を区別するために家名ないし苗字を名乗るようになり、それが一般的に通用するようになる。例えば源氏の中のある家系は足利という苗字を称し、別の家系は新田の苗字を称した。つまり足利も新田も、血縁集団としては同じ源姓の源氏だが、家族集団としては足利家と新田家と別個に分かれた。時がたてば、足利も新田も家族的規模からより大きな氏族的規模となり、そこからさらにまた家族集団が新しい苗字で別れていった。
江戸時代までは、朝廷の公式文書には(ウヂ)と(カバネ)を記すのが習わしであった。姓(カバネ)が朝廷との関係を表す。例えば、徳川家康の場合は「源朝臣家康」と記す。「源」が氏(ウヂ)で、「朝臣」が姓(カバネ)である。ただし、平安時代の頃から、氏(ウヂ)と姓(セイ)とは同じものとされるようになり、例えば「源」は姓=氏とされた。姓(氏)と名字(苗字)との違いは、姓=氏が天皇(朝廷)から賜ったものであるのに対し、名字は自らが名乗ったものであるということである。例えば、足利尊氏の場合、姓(氏)の「源」を使った場合は「源尊氏」であるのに対し、名字(苗字)の「足利」を使った場合は「足利尊氏」である。

2. 明治初期から明治民法下における氏

明治時代においては、まず1870年に、それまで身分的特権性を有していた苗字を平民も自由に公称できるようになり、苗字の特権性が否定された(平民苗字許容令)。つまり明治以前までの、姓(氏)と、名字(苗字)の二重制度が廃止され、姓(氏)=名字(苗字)として一元化され、自由に名乗れることにされたのである。
1872年壬申戸籍が編纂された際、戸主の届出によって、戸籍へ登録する氏が定められることとなる。それまで、朝廷で編纂される職員録には伝統的な氏(うぢ)とが用いられてきたが、多くの戸主は籍への登録は苗字家名を以てした。広く知られている例では、越智宿禰博文が伊藤博文と、菅原朝臣重信が大隈重信と、源朝臣直正が鍋島直正と、藤原朝臣利通が大久保利通と、藤原朝臣永敏が大村益次郎と登録したものなどである。その後も伝統的に旧来の氏を用いる場面は皆無ではないが、この壬申戸籍以降、国家が公的な場面で旧来の「藤原朝臣○○」などの名称を用いることはなくなり、この壬申戸籍によって伝統的な氏(うぢ)の用法は事実上ほぼ途絶したものといいうる。
のち日本国民全てを戸籍により把握する必要が発生したことや事務上の要請もあったことなどから、1875年に、全ての国民について苗字の公称が義務づけられることになる(平民苗字必称令)。その際、妻は生家の苗字を称すべきか、夫のそれを称すべきかが問題となったが、1876年太政官指令では、武士の慣行であった夫婦別氏の慣行に従うべきこととした。
ところが、庶民の生活実態に合わないなどの理由で、明治政府の夫婦別氏政策に対しては、地方から多くの疑問や批判が出された。また、不平等条約の解消の一環として民法典の編纂がその頃始まったが、当時のヨーロッパ法を参考にしたこともあり、妻が夫の氏を名乗る夫婦同氏制が草案の段階で採用され、1890年に公布された旧民法においても、妻が夫の家の氏を用いるとする夫婦同氏の制度が正式に採用されることになる(この旧民法において、法令上は「氏」で呼称が統一される)。
旧民法はいわゆる民法典論争により施行されず、改めて現行民法が制定・公布され1898年に施行された。ここでは、家族制度につき戸主及びその家族から構成されるという集団を想定し戸主に家の統率権限を与えるという、いわゆる家制度が採用された(家制度自体は、旧民法でも採用)。そして「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」と定められたことから、氏は、家の呼称としての性質を有することになる。また、家を同じくする者を一つの戸籍に編成する法制を採ったため、戸籍編成の単位としての意味をも持つことにもなった。

3. 家制度廃止後の氏

第二次世界大戦後における家族法の大改正の際、日本国憲法に違反するとして家制度は廃止されたが、氏の制度は廃止されず、維持された。その際、家制度を連想させる「氏」の語を廃止し「姓」を採用することも考えられたが、結局は変更されなかった。
氏は、社会習俗上はともかく、法制度上は家という拠所を失ったため、その法的性格をどのように考えるかが問題となった。この点については、名と合わせて個人の同一性を識別するための個人の呼称としての性質を有すること自体はあまり争いがないが、そのことを徹底して主張するのか、いわゆる核家族の呼称でもあるのか、同籍者集団の呼称でもあるのか、一定の身分関係にある者の共通の呼称であるとするかなどに見解が分かれている。
戦後の家族法改正後においては、氏を同じくするか否かは民法の規定によって定まるが、戸籍が「一の夫婦及びこれを氏を同じくする子ごとに」編成されるため、氏は戸籍編成の基準としての性質をも帯びる。戸籍以外の点で氏の異同が大きな法律上の差異を生じさせることは法制度上は極力避けられているが、祭祀財産の承継については、氏と関連付けられている。

3. 1. 民法での氏

  • 夫婦の氏(750条 夫婦同氏の原則)
  • 生存配偶者の復氏等(751条
  • 離婚による復氏等(767条













    離婚の日から三箇月以内に戸籍法の定めるところにより届け出る。



































  • 離婚による復氏の際の権利の承継(769条























  • 子の氏(790条























  • 子の氏の変更(791条























  • 養子の氏(810条 婚氏優先の原則)























  • 離縁による復氏等(816条























  • 離縁による復氏の際の権利の承継(817条























4. 関連項目




Wiki: 氏姓制度
氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏(ウヂ)・姓(カバネ)」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。
大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。
コンテンツ:

1. 政治制度としての氏姓制度

原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となった。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直された。その成立時期は、5~6世紀をさかのぼらない。同族のなかの特定の者が、(おみ)、 (むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主(あがたぬし)などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色がある。各姓(カバネ)は以下のごとくである。
臣(おみ)
葛城氏(かつらぎ)、平群氏(へぐり)、巨勢氏(こせ)、春日氏(かすが)、蘇我氏(そが)のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏(ウヂ)の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
連(むらじ)
大伴氏物部氏中臣氏(なかとみ)、忌部氏(いんべ)、土師氏(はじ)のように、ヤマト王権での職務を氏(ウヂ)の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族である。
伴造(とものみやつこ)
連(むらじ)とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)などの代表的な帰化氏族、それに弓削氏(ゆげ)、矢集氏(やずめ)、服部氏(はとり)、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏(ウヂ)がある。連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(カバネ)を称した。
百八十部(ももあまりやそのとも)
さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。
国造(くにのみやつこ)
代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民(べみん)を率(ひき)いる地方的伴造の地位にある者もあった。国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓(カバネ)が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
県主(あがたぬし)
これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏(ウヂ)の名とする。
このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれた。そののち、臣のように、元々は王とならぶ地位にあった豪族にも及んだ。

1. 1. 部民などの私有民

氏姓は元来はヤマト王権を構成する臣・連・伴造・国造などの支配階級が称したものである(王とその一族を除く)。しかし、6世紀には一般の民にも及んだ。これらの一般の民は、朝廷すなわち、天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、さらに臣、連らの豪族に領有・支配されていた。そのため、一般の民の中から、朝廷に出仕して、職務の名を負う品部(しなべ)、王名、宮号を負う名代(なしろ)・子代(こしろ)、屯倉(みやけ)の耕作民である田部(たべ)などが必然的に生まれた。彼らは先進的な部民共同体の中で戸を単位に編成され、6世紀には籍帳に登載されて、正式に氏姓をもった。
これに対し、地方豪族の支配下にあった民部(かきべ)は、在地の族長を介して、共同体のまま部(べ)に編入し、族長をへて貢納させる形のものが多かった。そのため、地方豪族の支配下にあった一般の民にまで6世紀の段階で氏姓が及んでいたかどうかは定かではない。

2. 律令国家による氏の再編過程

大化の改新により、氏姓制度による臣・連・伴造・国造を律令国家の官僚に再編し、部民を公民として、一律に国家のもとに帰属させた。
664年(天智3年)に、「甲子(かつし)の宣」が発せられた。これは、大化以来の官位を改め、大氏(おおうじ)、小氏(こうじ)、伴造氏(とものみやつこうじ)を定め、それぞれの氏上(うじのかみ)と、それに属する氏人(うじびと)の範囲を明確にしようとするものであった。つまり、官位の改定によって、大錦位(大氏)・小錦位(小氏)、つまり律令の四、五位以上に位置づけられる氏上をもつ氏を定めたものであり、これによって朝廷内の官位制度と全国の氏姓制度とを連動させようとした。さらにこのような氏上に属する氏人を父系による直系親族に限ることとし、従来の父系あるいは母系の原理による漠然とした氏の範囲を限定することとした。これにより、物部弓削(もののべゆげ)、阿倍布勢(あべのふせ)、蘇我石川(そがのいしかわ)などの複姓は、これ以後原則として消滅することとなる。
684年(天武13)に、「八色の姓(やくさのかばね)」が制定された。その目的は、上位の 4 姓(カバネ)、つまり真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)を定めることである。真人は、継体天皇より数えて5世以内の世代の氏に与えられたといわれ、皇子・諸王につぐ皇親氏族を特定したので、飛鳥浄御原令で官位を皇子・諸王と貴族(諸臣)とで区別したことと共通する。したがって、貴族の姓(カバネ)としては、朝臣、宿禰、忌寸の三つである。以上が「甲子の宣」の大氏、小氏、伴造氏の発展形であり、その間にさらに氏族の再編が進められ、朝臣52氏、宿禰50氏、忌寸11氏に収(おさ)められた。
大宝令701年)で、貴族の三位以上と四、五位の官位にともなう特権が明確にされた。これに対応する氏姓も一応完成された。地方豪族についても、702年(大宝 2)、諸国国造の氏姓を政府に登録することによって、中央豪族と同様の対応がなされたものとされる。
一般の公民については、670年(天智9)の庚午年籍690年(持統4)の庚寅年籍によって、すべて戸籍に登載されることとなり、部姓を主とする氏姓制度が完成されることとなった。しかしながら、現存する702年の大宝2年籍に、氏姓を記入されていない者、国造族、県主族などと記された者がかなり存在するため、このとき、まだ無姓の者、族姓の者が多数いたことが伺(うかが)える。
757年(天平宝字1)、戸籍に無姓の者と族姓の者とをそのまま記(しる)すことをやめることとした。これは地方豪族の配下の百姓には、
  1. 所属が定まらず無姓のままの者、
  2. 国造、県主の共同体に属することを示すことによって族姓を仮称させた者、
  3. 姓を与えられていない新しい帰化人
が存在していたことを示している。そして、これ以後、このような者たちには正式に氏姓が与えられるようになった。
8~9世紀において改賜姓がさかんに行われているのは、八色の姓において、上級の氏姓にもれた下級の身分の者や、これらの農民を主な対象としたものである。その順位は、
  1. 無姓
  2. →造、公、史、勝、村主、拘登(ひと)
  3. →連
というようになる。
これは、天武朝において氏上に相当する氏が八色の姓に改姓する前段階として、まず連への改姓が行われ、この連=小錦位以上を基点として、忌寸以上の四つの姓へ改められたことと同様の対応である。
氏上である忌寸以上についても、補足的な氏姓の変更が行われている。氏の名において春日より大春日、中臣より大中臣への変更、また宿禰から大宿禰への変更が行われるなどしたため、氏姓の制は、全般的に、より緻密に浸透することになった。
これらの全般的な特徴として、まず首位の昇叙があり、ついでそれに連なる直系親族のみに対し氏姓の変更が行われるといった順序により同族の中から有力な者が抽出されるという点にある。この改賜姓を認可する権限は天皇にあった。

3. 氏姓制の変質

9世紀に、摂関政治により藤原朝臣が最も有力となった。また、桓武天皇より平朝臣、清和天皇などから源朝臣の氏姓(ウヂ・カバネ)が生まれたように、諸皇子に氏姓をあたえる臣籍降下が盛んに行われるようになった。これらのため、律令的氏姓制度は、人材登用制度としてはほとんど有効に機能しなくなった。
一方、律令的戸籍制度も次第に行われなくなり、 10世紀には、地方豪族で実力を蓄えた者は、有力な貴族の家人となり、その氏姓を侵すようにさえなり、いわゆる冒名仮蔭(ぼうめいかいん)の現象が一般化した。そのため、天下の氏姓は、源・平・藤・橘か、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗(これむね)、清原などに集中されるようになった。これは家業の成立によって、特定の家柄が固定されるようになったためでもある。
たとえば、越前の敦賀氏、熱田大宮司家らが藤原氏から養子を迎えて「藤原朝臣」を名乗ったり、それらの氏の女子をめとり母系によって「藤原朝臣」その他の氏姓を称した例もある。武士もまた、地頭として、本家領家の氏姓を侵し、同じ氏姓を名乗る者が増えた。ここにおいて、同姓の間でも、さらに族名を分かつ必要にせまられ、貴族では家名、武士では名字(みようじ)が生ずるのである。
一方、氏姓のほかに、同時に発達したのが(あざな)である。仮名(けみよう)、呼名(よびな)ともいわれ、一種の私称であった。すでに『日本霊異記』に、紀伊国伊刀郡人文忌寸(ふみのいみき)を、上田三郎と称した例がある。上田は、伊刀郡上田邑の地名、三郎は三男の意である。
氏姓に取って代わることになる苗字名字)は、このように字(あざな)の一部分として発生し、さらに字(あざな)から分離独立したものとされる。初期の苗字は、自分の居住地や所領の名であったため、父子兄弟が苗字を異(こと)にしている場合も多い。しかし、やがて苗字が家名・一族の名前を意味するようになると、他国に移っても一族の苗字は変更されないようになった。
このため、苗字は、12世紀以後、氏姓と同じように用いられることとなった。今日的な意味での姓(セイ)の特徴は、基本的にはこの苗字(名字)から発生している。

4. 関連項目


Wiki: ヤマト王権 (1/2)

ヤマト政権(やまとせいけん)・ヤマト王権(やまとおうけん)・大和朝廷(やまとちょうてい)とは、古墳時代に「大王」(おおきみ)などと呼称された国王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した王権である。基本的には律令国家成立以前の名称であり、飛鳥時代以降については通常大和朝廷と呼ばれる。主に奈良盆地を中心とした近畿地方を本拠地としていた。


7世紀のヤマト王権の勢力図。[1]
かつては、律令体制の整備が進んだ飛鳥時代以前の政権についても「大和朝廷」という呼称が広く用いられた[2]が、「大和」の表記や「朝廷」の成立時期を巡って学会の中では見解が分かれており、一定していない。現状では、少なくとも古墳時代に関しては「ヤマト王権」ないし「ヤマト政権」を採用する研究者が多いので、本稿ではヤマト王権として叙述する(呼称に関しては名称についてを参照)。
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1. 名称について

朝廷」も参照
1960年代以前は、4世紀頃から6世紀頃にかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として大和朝廷の名称が用いられていた。しかし1970年代になると、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定年輪年代測定の方法が確立し、精度が向上したこともあいまって古墳の編年研究も進捗し、「大和時代」という時代を設定することは不適切だと考えられるようになり、かわって「古墳時代」の名称が一般的となった。研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権についてヤマト王権大和政権等の用語が使用され始めた。1980年代以降は、大和政権、ヤマト政権、それが王権であることを重視してヤマト王権、大和王権、あるいは東アジア世界とのかかわりを重視して倭国政権倭王権等様々な表記がなされるようになっている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について学界でさまざまな見解が示されていることを反映している。
「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』では「大和」の漢字表記はなされておらず、8世紀中ごろに施行された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、少なくとも初期の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。
「大和(ヤマト)」はまた、
  1. 国号「日本)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)
  2. 令制国としての「大和」(上述)
  3. 奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡十市郡
の広狭三様の意味をもっており[3]、最も狭い3.のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記より3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。
白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違している[4]ことに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている[5]
朝廷」の語については、天子が政務や儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという認識が歴史学界、考古学界の趨勢を占めている。
中学校社会科の歴史分野の教科書においては、「ヤマト王権」としていたのは帝国書院、「大和政権」を使用してる出版社は東京書籍清水書院大阪書籍教育出版日文であったのに対し、「大和朝廷」を使っていたのは扶桑社・日本書籍版であった(いずれも平成18年度)。高等学校地理歴史科の日本史教科書においては、笹山晴生ほか『詳説日本史』(山川出版社)、江坂輝弥ほか『高等学校新日本史B』(桐原書店)、加藤友康ほか『高等学校日本史B 改訂版』(清水書院)などではいずれも「ヤマト政権」、大津透ほか『新日本史』(山川出版社)では「ヤマト(大和)政権」、尾藤正英ほか『新選日本史B』(東京書籍)では「大和王権」などとなっている。

2. 王権の成立

2. 1. 小国の分立

弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に「倭国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。
また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと考えられる高地性集落が多くつくられ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にあってはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争の激しかったことを物語る。
墓制の面でみても、九州北部における甕棺墓中国地方における箱式石棺墓近畿地方における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態が異なり、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主に西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現することから、各地に有力な首長があらわれたものと考えられる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸瀬戸内地方銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など宝器として用いられる青銅器の種類にもあらわれている。

2. 2. 邪馬台国連合と纒向遺跡

『魏志』倭人伝によれば、3世紀前半、邪馬台国卑弥呼があらわれ、国ぐには卑弥呼を共立して倭の女王とし、それによって争乱はおさまって30国ほどの小国連合が生まれた、としている。邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰租税の制もあり、九州北部にあったと考えられる伊都国には「一大率」という監察官的な役人がおかれるなど、統治組織もある程度ととのっていたことがわかる。邪馬台国の所在地については近畿説と北部九州説があるが、近畿説を採用した場合、3世紀には近畿から北部九州におよぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、北部九州説を採用すれば北部九州一帯の地域政権ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。
こんにちでは、古墳の成立時期は3世紀にさかのぼるとされているため、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とするヤマト王権に直接つながる可能性が高くなった。その中枢となる地と考えられるのが、纒向遺跡である。この遺跡は、奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で認められ、巨大な運河などの大土木工事もおこなわれていた一種の政治的都市で、東海地方から北陸近畿・阿讃瀬戸内・吉備出雲ならびに北部九州にいたる各地の土器が搬入されており、また、規模の点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍におよび、7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で多賀城跡よりも大規模である[6]
纒向石塚古墳など、この地にみられる帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。纒向型前方後円墳と称することもある)は、前方後円墳に先だつ型式の古墳で、墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかにしのぐ規模をもち、また、山陰地方四隅突出型墳丘墓吉備地方楯築墳丘墓など各地域の文化を総合的に継承しており、これは政治的結合の飛躍的な進展を物語っている。そうしたなかで、吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊壺や特殊器台が採り入れられるなど、吉備はヤマトの盟友的存在として、その政治的結合のなかで重要な位置を占めていた[7]
『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼の死ののちは男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女臺与が王となって再びおさまったことが記されている。こののち、邪馬台国と狗奴国の抗争がおこり、正始8年(248年)には両国の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政が、檄文をもって臺与を諭した、としている。また、『日本書紀』の神功紀にも引用される『晋書』起居註には、秦始2年(266年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽におもむいて朝貢したとの記述があり、この女王は臺与と考えられている。

2. 3. ヤマト王権の成立

ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である[8]。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。
3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。


箸墓古墳(北西方向から)
こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考えられる。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。
出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良県南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト王権」もしくは「ヤマト政権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある[9]



Wiki: カバネ
(カバネ)とは、古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。
その発祥の経緯は明確ではない。ヤマト王権が成熟し、大王家を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与されたと考えられている。
語源には以下のように諸説があるが、はっきりとは分かっていない。
  • 株根(かぶね)、株名(かぶな)などで血筋や家系を意味する語より。
  • 崇名(あがめな)より変化したもの。
  • 新羅の類似した制度「骨品制」より家系を表わす骨を「かばね」と読んだもの。
職掌を示す姓としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)などがある。地位・格式・立場を示す姓としては、公(きみ)、(おみ)、(むらじ)、(みやつこ)、(あたい)、(おびと)、(ふひと)、村主(すぐり)などがある。その他の姓としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた(こにきし)などがある。
古代の姓の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓が与えられた。
姓の制度は、壬申の乱672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は低下した。代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそみ、後に「あそん」。更に後世には「あっそん」とも)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)などの姓が与えられた。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの有力氏族の姓が朝臣になってしまい、八色の姓も形式的なものに変質してしまう。
ヤマト王権から明治維新までかろうじて命脈を保った姓は、藤原朝臣永敏(大村益次郎)・藤原朝臣利通(大久保利通)・菅原朝臣重信(大隈重信)・源朝臣有朋(山縣有朋‎)などに代表される朝臣、「越智宿禰博文」(伊藤博文)などに代表される宿禰である。これらの真偽はともかくとして、天皇および朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏・姓が復古的に用意されただけ、という意味合いが強い。
明治政府は、1870年の平民苗字許容令、1872年(明治5年)の壬申戸籍編纂の二段階によって「(シ、うじ)=(セイ、本姓)=苗字名字」の一元化を成し遂げ、旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止したため、事実上、「藤原」などの旧来の氏・「朝臣」などの姓は、その役割を完全に終えた。この壬申戸籍以後、旧来の姓は、それと一体化していた旧来の氏とともに、法的根拠をもって一本化された「(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立したのは、1875年(明治8年)の平民苗字必称令によってである。



Wiki: 家制度
家制度(いえせいど)とは、1898年に制定された民法(以降、旧民法という)において規定された家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主家族として一つのに属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。
女性参政権の施行と日本国憲法の制定に合わせて、1947年には民法が大規模に改正され、親族編・相続編が根本的に変更された為に、家制度は廃止された。

1. 「家」の概念

「家」は、「戸主」と「家族」から構成される。戸主は家の統率者であり、家族は家を構成する者のうち戸主でない者をいう。
一つの家は一つの戸籍に登録される。つまり、同じ家に属するか否かの証明は、その家の戸籍に記載されている者であるか否かにより行われた。このことから、民法の条文の「父ノ家ニ入ル」「家ヲ去リタル」という(当時の)表現は、戸籍の面からは、それぞれ「父の家の戸籍に入籍する」「家の戸籍から除籍された」ことを意味する。
なお、戸籍を管理するための法律として、旧民法に代わり1947年に施行された戸籍法では、三代以上の親族が同一戸籍に記載されない制度になっている(三代戸籍の禁止)が、家制度においては家の構成員は二代に限られなかったので、戸籍上も制約はなかった。

2. 戸主

戸主は、家の統率者としての身分を持つ者であり戸籍上は筆頭に記載された。このため、戸籍の特定は戸主の氏名と本籍で行われることになる。

2. 1. 戸主権・戸主の義務

戸主は、家の統率者として家族に対する扶養義務を負う(ただし、配偶者、直系卑属、直系尊属による扶養義務のほうが優先)ほか、主に以下のような権能(戸主権)を有していた。
  • 家族の婚姻養子縁組に対する同意権(旧民法750条)
  • 家族の入籍又は去家に対する同意権(ただし、法律上当然に入籍・除籍が生じる場合を除く)(旧民法735条・737条・738条)
  • 家族の居所指定権(旧民法749条)
  • 家籍から排除する権利







    1. 家族の入籍を拒否する権利







      • 戸主の同意を得ずに婚姻・養子縁組した者の復籍拒絶(旧民法741条2・735条)
      • 家族の私生児・庶子の入籍の拒否(旧民法735条)
      • 親族入籍の拒否(旧民法737条)
      • 引取入籍の拒否(旧民法738条)








    2. 家族を家から排除する(離籍)権利(ただし未成年者と推定家督相続人は離籍できない)







      • 居所の指定に従わない家族の離籍(旧民法749条)
      • 戸主の同意を得ずに婚姻・養子縁組した者の離籍(旧民法750条)
















2. 2. 女戸主

戸主は男性であることが原則であるが、女性であっても家督相続や庶子・私生児などによる一家創立など、女戸主もあり得た。しかし男戸主に比べ、いくつかの差異があった。
  • 隠居するには、年齢その他の要件を満たしている必要があるが、女戸主の場合は年齢要件を満たす必要がない(旧民法755条)
  • 戸主が婚姻して他家に入るには、女戸主の家に婚姻で入る場合と婿養子縁組(婚姻と妻の親との養子縁組を同時に行うこと)に限られたが、女戸主が婚姻するためであれば裁判所の許可を得て隠居・廃家ができた(旧民法754条)
  • 婚姻により夫が女戸主の家に入る(入夫婚姻)際、当事者の反対意志表示が無い限り入夫が戸主となった(旧民法736条)。ただし1914年(大正3年)以降の戸籍法では、入夫婚姻の届書に入夫が戸主となる旨を記載しなければ、女戸主が継続する扱いであった。
これらの扱いは、女性は家の管理者には適さず、男戸主を原則としたいという考えによるものである。

2. 3. 戸主の地位の承継(家督相続)

戸主の地位は、戸主の財産権とともに家督相続という制度により承継される。相続の一形態であるが、前戸主から新戸主へ全ての財産権利が譲り渡される単独相続である点が現在の民法と大きく異なる。
家督相続は次の場合に行われる。
  • 戸主が死亡したとき
  • 戸主が隠居したとき
  • 戸主自身が婚姻し別戸籍に去ったとき
  • 女戸主が入夫婚姻を行い夫に戸主を譲るとき
  • 入夫婚姻により戸主となった夫が離婚により戸籍を出るとき
  • 戸主が日本国籍を失ったとき
家督相続人(新戸主)となる者は、旧戸主と同じ家に属する者(家族)の中から、男女・嫡出子庶子・長幼の順で決められた上位の者、被相続人(旧戸主)により指定された者、旧戸主の父母や親族会により選定された者などの順位で決めることになっていたが、通常は長男が家督相続人として戸主の地位を承継した。

3. 家の設立・消滅

新たに家が設立される形態として「分家」、「廃絶家再興」、「一家創立」が、家が消滅する形態として「廃家」、「絶家」がある。

3. 1. 分家

分家とは、ある家に属する家族が、その意思に基づき、その家から分離して新たに家を設立することをいう。このとき、元々属していた家を「本家」と呼んだ。本家の統率の観点から、分家するためには戸主の同意が必要とされた。分家する際には分家者の妻および直系卑属およびその妻が分家と共に新たなに入ることができる。ただし夫婦同籍の原則があるため、分家者の妻と、直系卑属が新たな家に入るときの妻はかならず共に移動することになる。

3. 2. 廃絶家再興

廃絶家再興とは、廃家・絶家した家を、縁故者が戸主となり再興すること。廃絶家再興の主な要件は次のとおりである。
  • 家族は戸主の同意を得て廃絶した本家、分家、同家その他親族の家を再興することができる(旧民法743条)
  • 法定推定家督相続人や戸主の妻、女戸主の入夫は廃絶家がその本家である場合に限って再興することができる(旧民法744条)
  • 新たに家を立てた者に関しては自由に廃家して、本家、分家、同家その他親族の家を再興することができる(旧民法762条)
  • 家督相続によって戸主となった者は廃絶家がその本家である場合に限って裁判所の許可を得て現在の家を廃家したうえ本家を再興することができる(旧民法762条)
  • 離婚または離縁によって実家に復籍すべき者が実家の廃絶によって復籍することができない場合には再興することができる(旧民法740条)
  • 廃絶家の再興は市町村長に届け出ることを要する(旧戸籍法164条)
再興した者はその家の戸主となり廃絶家の氏を称するが、廃絶家前の財産など各種の権利を引き継ぐ訳ではないため、単に家の名を残し、本家と分家といった家系を残す程度の効果しかない。

3. 3. 一家創立

一家創立とは、家督相続や分家とは異なり、新たに戸主になる者の意思とは無関係に、法律の規定により当然に家が設立される場合をいう。
一家創立は次の場合に生じる。
  • 子供の父母が共に分からないとき(旧民法733条3)
  • 非嫡出子が、戸主の同意が得られずに、父母の家に入ることができなかったとき(旧民法735条2)
  • 婚姻・養子縁組をした者が離婚・養子離縁をした際に、復籍するはずの家が廃家や絶家により無くなっていたとき(旧民法740条)
  • 戸主の同意を得ずに婚姻・養子縁組をした者が離婚・養子離縁した際に、復籍すべき家の戸主に復籍拒絶をされたとき(旧民法741条・742条・750条)
  • 家族が離籍されたとき(旧民法742条・749条・750条)
  • 家族が残っている状態で絶家し、入るべき家が無くなったとき(旧民法764条)
  • 日本国籍を持たない者が、新たに国籍を取得したとき(旧国籍法5条5・24条・26条)
  • 無戸籍の父母の間の子が日本で生まれたとき(旧国籍法4条)
  • 戸主でないものが爵位を授けられたとき(明治38年 戸主ニ非ザル者爵位ヲ授ケラレタル場合ニ関スル法律)
  • 皇族が臣籍に降下されたとき(明治43年皇室令2号)

3. 4. 廃家

廃家とは、戸主が、婚姻や養子縁組などの理由により他の家に入るために、元の家を消滅させることをいう(旧民法762条)。ただし、一家創立によって戸主になった者は自由に廃家できたが、家督相続により戸主になった者が廃家する場合は裁判所の許可を必要とした。

3. 5. 絶家

絶家とは、戸主が死亡したことなどにより家督相続が開始されたにもかかわらず、家督相続人となる者がいないために、家が消滅することをいう(旧民法764条)。廃家が戸主の意志を元に行うのに対し、絶家は不可抗力により生じる。

4. 廃止された理由等

戸主の権限は家の統率者としての権限であるため、同じ親族であり、親等が同じであったとしても、同じ家に属するか否かにより戸主による統率を受けるか否かが異なってくる。それに加え、家族の身分関係の変動(婚姻、養子縁組など)について戸主の同意を必要とするものがあったため、家族が家を去るか否かにつき戸主の意向に左右されることになる。これらの事情が、親族の権利関係が戸主の意思に左右される原因となる。
このように、家制度には家を統括する戸主の権限により家族の権利が犠牲にされる側面があったため、憲法24条等に反するとして、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年[1947年]法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)を以って廃止された。ただし、牧野英一ら保守的な法学者の巻き返しもあり、「家族の扶養義務」などの形でその一部は存置されることとなった。

5. 関連項目



Wiki: 天皇 (1/5)

曖昧さ回避
この項目では、主に称号や地位としての天皇について説明しています。
  • 当代の天皇という意味の言葉としての今上天皇については「今上天皇」をご覧ください。
  • 今上天皇自身については「明仁」をご覧ください。
  • 歴代天皇については「天皇の一覧」をご覧ください。
  • 天皇のその他の用法については「天皇 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
天皇(てんのう)は、世襲により継承される、日本国象徴及び日本国民統合の象徴であり(日本国憲法第1条第2条)、歴史的には、古代から世襲により受け継がれた日本の君主である。平成元年(1989年)から平成21年(2009年)現在まで、第125代の明仁が在位。
本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する事柄も扱う。
コンテンツ:
1. 称号
2. 皇位継承
3. 憲法の規定
4. 神道と仏教と天皇
5. 天皇の歴史
6. 天皇の国籍
7. 天皇と世界各国
8. 天皇と課題
9. 脚注
10. 参照文献
11. 関連項目
12. 外部リンク
日本の旗 日本の統治機構 
日本国憲法
天皇
立法
行政
司法
国会
衆議院
参議院
内閣鳩山内閣
内閣総理大臣
国務大臣
行政機関
裁判所
最高裁判所
下級裁判所
地方自治
地方公共団体
地方議会

首長
国民主権者
日本の選挙
日本の政党

1. 称号



十六弁八重表菊紋。天皇および皇族の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。

1. 1. 「天皇」の由来

「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。
  • 古代中国北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)から採ったという説。
  • 高宗(在位649年-683年)は皇帝ではなく前述の道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。
  • 5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。
はじめて採用したのは推古天皇という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、平成10年(1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。

1. 2. 称号の歴史

近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。字音仮名遣では「てんわう」と表記する。
国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。

1. 2. 1. 古代

天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[1]。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[2]

1. 2. 2. 律令制での称号

天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国外にむけては)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。
死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「」。臣下からは「至尊」とも称された。
なお、奈良時代天平宝字6年(762年)- 同8年(764年)に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているが、これは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。

1. 2. 3. 中世

平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。
また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝をさす言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみことすめろぎすべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。
今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇上皇と略称され、仙洞などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。

1. 2. 4. 明治以降



大日本帝国憲法3頁目。明治天皇の諱、睦仁の署名と共に、「天皇御璽」という御名御璽が見える。
大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。
そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸海軍の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。

1. 2. 5. 現在

なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では、前後関係から天皇であるか皇后であるかが明らかな場合に単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「聖上」などの表現は廃れ、「お上」はどちらかというと政府を指す場合が多くなったため、婉曲表現で呼ぶことはまれになっている。
一部の出版物においては、平成21年(2009年)現在の今の天皇に対して、「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。しかし、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の3代の「○○(元号)天皇」という呼称は、その天皇の崩御後に贈られる諡号であり、現在の天皇に対する呼称としては誤りである。また諡号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今の天皇の崩御後に平成天皇という諡号が贈られると確定している訳ではない。
憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書においては「日本国天皇」と称することも多い。

1. 3. 諸言語における呼称

1. 3. 1. 英語における呼称

天皇は、英語においては、通常、"(the) Emperor" と呼ばれる。今日、国際的に承認されている国家の元首(ないしそれに類似する地位)にある者で皇帝(Emperor) 号を対外的に使用するのは、天皇のみである。第三者としての天皇に言及する際に用いられる「陛下」に相当する尊称は "His Majesty" または "His Imperial Majesty" であり、また略して "H.M." または "H.I.M." と記す場合もある。天皇は男性であるため、"Her Majesty" は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じく "H.M." である。
天皇皇后両陛下という場合は、"Their [Imperial] Majesties Emperor and Empress" となる。天皇に対する呼びかけは一般的に "Your [Imperial] Majesty" である。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、"His/Her Imperial Highness" であるが、この場合は "Imperial" は省略できない。
歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。
天皇の諡号については、「○○天皇」を "Emperor ○○" のように訳すが、明治天皇以降については "○○ Emperor" と訳すべきとの議論もある。また、昭和天皇以降については、追号ではなく(裕仁“Hirohito”や明仁“Akihito”)で呼ばれることが多い。

1. 3. 2. 朝鮮半島における天皇の呼称

日朝関係史」、「皇帝」、および「日本国王」も参照
朝鮮歴代王朝は長く中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。そのため日本の皇室が「皇」や「帝」を称することを認めず「倭国王」「日本国王」等の称号を用いた。
近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清国冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、朝鮮王は自らを「大韓帝国皇帝」と称することで、初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。
朝鮮半島独立後は、英語で天皇を意味する "Emperor" の訳語を踏襲せず「日本国王」(「日王」)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号が一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。
大統領在任当時、金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたがマスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが[3]、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。李明博大統領は「天皇」の称号を用いている[3]。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している[3][4]。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭ごろに「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在にいたっている[3]
現在の大統領李明博は2009年9月15日にインタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いており、このことが韓国内でニュースとなった[5]。ニュースでは、漢字使用国家である中国台湾も「天皇」を使っていることを伝えた。
ちなみに、朝鮮語版ウィキペディア「日本天皇」の冒頭には、北朝鮮と韓国が日本の王という意味で「日王」と呼ぶこともあることが記されている。

1. 3. 3. 中国における天皇の呼称

古代から近代にかけて、中国は中華思想によって、自国の皇帝と同格の存在を認めようとしなかった。そのため、長らく天皇ではなく、日本国王の呼称を用いた。
現代の中国人の間では、天皇、日本国王、日王、日皇などの呼称が混在している。中国政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの呼称が基本となっている[6]



Wiki: 大王 (ヤマト王権)
大王(おおきみ)とは、一般に3世紀後半から7世紀末頃、古墳時代から飛鳥時代にかけてのヤマト王権倭国)の首長を指していう歴史用語。5世紀後半までに大王治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内において用いられたと考えられている。
コンテンツ:
1. 王の称号
2. 「大王」表記の成立
3. 「天皇」表記の成立
4. 関連項目

1. 王の称号

」の称号は、もとは中国を統べる君主を指したものである。代には天下を統治する唯一の天子として王の称号があったが、戦国時代に入ると王の臣下であるはずの諸侯が争って「王」を自称したため、王が乱立した。その後、中国を初めて統一した(紀元前221年秦王政は、価値を落とした王号に代わって新しい称号「皇帝」を使用した。その後、が成立する(紀元前221年)と王号は皇帝の臣下へ与えられる称号(諸侯王)として定着した。
日本に関連する王号の初出は、漢の光武帝奴国の王に賜綬した金印に見える「漢委奴国王」である。次いで、『後漢書』安帝紀の永初元年(107年)の記事に初めて「倭国王」の語が見える。安帝紀に「倭国王帥升等」とあるように、倭国王は地域の小国家ではなく、いくつかの地域国家連合の首長としての「倭国の王」と考えることができ、これは倭国の成立を示すものではないかとされる。それからやや下った時代の卑弥呼もまた、によって倭国の統一的な長、「倭王」と認知されている。
大和言葉では「きみ」がこの概念に相当するものとされ、字訓となった。

2. 「大王」表記の成立

日本書紀』大鷦鷯(仁徳)天皇(4世紀末から5世紀初頭)即位前紀に「大王、風姿…」と見えるが、当時から用いられていたかは定かではない。大王の表記はこの応神紀で初めて見え、その後は、允恭紀、雄略紀、顕宗紀、継体紀などでみられる。
倭の五王の最後の倭武に比定されることの多い、5世紀半ばに在位したワカタケル王(雄略天皇、おおはつせわかたけるのみこと)は、国内において治天下大王の称号を名乗っていたと推測されている。熊本県の 江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文には「台天下獲□□□鹵大王」とあり、この頃(5世紀後期)には治天下大王の称号が生まれたことを示唆している。ただし、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣には「獲加多支鹵(わかたける)大王」とあり、大王号も併用されていたのではないかと考えられている。
和歌山県隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡には以下の記述が見られる。
「癸未年八月日十 大王年 男弟王 在意紫沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱 作此鏡」(福山俊男)
「大王」「男弟王」などの記述がある本鏡が作成された癸未年の解釈をめぐっては、383年443年503年623年などの説があるが、このうち443年(允恭天皇)、503年(武烈天皇)が有力な説とされる。443年を採ると5世紀の半ばには「大王」表記が用いられていたことになるが、紀年銘の異体字をはじめ釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容について解釈が多様化しており、「大王」表記の厳密な使用開始年代ははっきりしない。
その他、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述される開皇20年(600年)第1回遣隋使の上奏文に「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、俀王多利思北孤の号 「阿輩雞彌」が「おおきみ」を表すと考えられている。大業3年(607年)第2回遣隋使上表文(国書)には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、対外的には「天子」の称号が使われている。しかし、国内においては「大王(おおきみ)」「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」号が使用されていたとされる。
7世紀初頭に聖徳太子が建立した法隆寺の金堂薬師如来像の光背銘に、「池邊大宮治天下天皇」(用明天皇)、「小治田大宮治天下大王天皇」(推古天皇)とあり、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が用いられていたことが推定される。しかしこの銘文自体が、「天皇」、「東宮聖王」などの語や「大御身労賜時」といった日本的な表現が使用されており、推古朝では早過ぎることや、書風に初の趣があることから初唐代のものとする説などがあり、疑問が多い。

3. 「天皇」表記の成立

天皇表記の成立時期は、初出とされる推古紀16年9月の条の「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。」であるとする従来の通説、そのほか天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の「斯帰斯麻宮治天下天皇」(欽明)があり、そして『懐風藻』序文で持統天皇以後についてのみ天皇表記が用いられていることを根拠に、皇后の表記とともに飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)において規定され、使用されるようになったという2通りの説がある。近年では後者が有力とされる。
「天皇」という表記には「すめらみこと」「すめろき」の熟字訓が当てられている。天皇家に生まれた神たる人の意味を表すという。
君主の公的な表記としての「天皇」の採用は、天武朝であった可能性が高いとされる。則天武后674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇表記を採用したのではないかと推測されている。「天皇(大帝)」は中国古代の宇宙の最高神天帝の名で、道教思想と深い関わりを持つが、天武の施政には道教的色彩が認められ、天武が天皇表記を用い始めたとする説を補強している。
飛鳥京跡から「大津皇」「津皇」「皇子」などの文字の見える木簡(もっかん)の削り屑が出土している。これらは天武の子大津皇子を指すと解釈されており、同時出土の他の木簡から天武10年(681年)のものと考えられている。天武10年に皇子表記が使用されていることは、それ以前に天皇表記が用いられていることの証左だと考えられている。

4. 関連項目


Wiki: 漢委奴国王印
漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある。また漢倭奴国王印とも書く。
天明4年2月23日1784年4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡県福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土。福岡藩黒田家所蔵だったが、1978年昭和53年)に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館で展示されている。1931年(昭和6年)12月14日国宝に指定されている。


漢委奴國王印文
コンテンツ:
1. 外形
2. 印文と解釈
3. 中国史との比定
4. 発見とその後
5. 偽造説と反論
6. 脚注
7. 参考文献
8. 関連項目
9. 外部リンク

1. 外形

1931年12月14日、金印が国宝に指定されたため帝室博物館員入田整三が金印を測定し、「総高七、鈕高四分二厘、印台方七分六厘、重量二八.九八六六」の結果を得ている[1]
1953年5月20日、戦後初めて金印の測定が岡部長章によって試みられた。「質量108.7グラム、体積6cc[2]比重約8.1」、貴金属合金の割合を三分、七分を常とする伝統的事実からして22.4K[3]と算定した[4]
1966年通商産業省工業技術院計量研究所(現独立行政法人産業技術総合研究所)で精密測定された。印面一辺の平均2.347cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625cm³。鈕は鈕である。辺の長さは代の1(約2.309cm)に相当する。
封泥用の印のため、現在使用されている印鑑とは違い中央が少し窪んだ形状になっている。

2. 印文と解釈

印文は陰刻印章(文字が白く出る逆さ彫り)で、3行に分けて篆書で「漢〈改行〉委奴〈改行〉國王」と刻されている。印文の解釈として、以下が挙げられている。

  • 文化庁編『新増補改訂版 国宝事典』(便利堂、1976年)「考古 金印」の項では「その訓みについてはなお定説をみない」としている。
  • 日本大百科全書』(小学館、1984年)「金印」の項では「1892年(明治25)三宅米吉により「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、いまの那珂郡に比定されて以来この説が有力である」としている。
  • 京大日本史辞典編纂会編『新編日本史辞典』(東京創元社、1990年)では「現状では金印について問題点が多く存在する。発見者については秀治なるもの、出土地については金印公園の地がよりふさわしいとされる。また委奴国の読み方にも諸説ある。(1)伊都国説、(2)ワのナ国説が代表的なものであろう」としている。
倭と奴の発音は
であり[13]、漢代の漢字音(上古音)では奴をド、トとは読めないという説がある。
前漢揚雄の『方言』という書物や『漢書』西域伝に登場する「難兜国」へ頒給された印章「新難兜騎君」印に注目し、漢代には上古北方漢音系の「ど」と上古南方呉音系の「な」「の」が並存したとする久米雅雄説[14]もある。

3. 中国史との比定

3. 1. 『後漢書』の記述との対応

後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

- 強調引用者
という記述があり、後漢光武帝建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
中国漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者に対しては、諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは印綬の項を参照)。

3. 2. 滇王之印との対応

1955年より発掘調査が始まった中華人民共和国雲南省晋寧県の石寨(せきさい)山遺跡(石寨山古墓群遺跡)からは50基の土坑墓青銅器を主とする副葬品4000点あまりが出土した。このうち1956年の第2次発掘で6号墓より「滇王之印」と書かれた金印などが発掘されており、古代の国家王の印とされている。またこの金印出土により、この古墳群が古代滇国の国王および王族の墓地(石寨山滇国王族墓)であることが判明した。
滇王之印の外形は印面一辺2.4cmの方形。上面のは蛇鈕である。印文は陰刻「滇王之印」の四字二行。
その寸法の形式から明らかに漢印であり、『史記』西南夷列伝の、武帝元封2年(紀元前109年)に滇王へ王印を下賜したという記事に対応する[15]
西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡で出土した漢委奴国王印が形式的に同一であることを指摘しており[16]、両印ともに蛇鈕であり、その年代は紀元前109年57年というおよそ166年の隔たりがあるが、ともに外民族の王が漢王朝に冊封を受けたしるしであったとしている。

3. 3. 廣陵王璽との対応

1981年、中華人民共和国江蘇省揚州市外の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。それは永平元年(58年)に光武帝の第9子で廣陵王だった劉荊に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとされる。西嶋定生は廣陵王璽金印は箱彫りで漢委奴国王印は薬研彫りであること、志賀島の金印の綬色は紫綬であるのに対して、廣陵王璽は「印」でなく「」とあることからその綬色は赤綬か綟綬(レイ:緑色)ではないかということを指摘したうえで蛍光X線による検査が待たれるとした[17]。なお、漢委奴国王印については蛍光X線による検査が行われており、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%と判明している。
これら他の印との比較によって真正性が考古学的に実証されれば、当然、偽造説は棄却される。

4. 発見とその後

発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ただし近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説も有力である。
水田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥[18]によって『後漢書』に記された金印であると同定された。
その後は福岡藩主黒田家に伝えられ、明治維新後に黒田家が東京へ移った後は、東京国立博物館に寄託されていたが、福岡市美術館の開設に際して1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈され[19]1979年(昭和54年)年から福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されている。
金印の出土地および発見の状態については、九州帝国大学中山平次郎の努力によるところが多い。1914年大正3年)、中山は現地踏査、黒田藩の古記録及び各種の資料の照会を行い、その出土地点を現在の志賀島東南部とした。推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。その後、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)の2回にわたり、森貞次郎乙部重隆渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われた。その結果、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の叶ノ浜が適しているとの疑問が提出された[20]
1973年(昭和48年)及び1974年(昭和49年)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている。

5. 偽造説と反論

形式・発見の経緯に不自然な点があることから、近世に偽造された贋作であるとの説もこれまでいくども唱えられてきた。また、印綬の形式が漢の礼制に合わないという意見もある。
三浦佑之は著書『金印偽造事件』[21]において、
  • 発見時の記録にあいまいな点が多いこと
  • 江戸時代の技術では十分贋作が作れること
  • 滇王之印に比べると稚拙
などの点を根拠に亀井南冥らによる偽造説を唱えた。
それに対し、高倉洋彰は漢代の印制にない蛇鈕の金印を偽造するのは不自然とし、三浦に反論している[22]
また、安本美典は偽物に「倭」ではなく「委」を使用するのは不自然とする。また同一工房で同時期に「廣陵王璽」と「漢倭奴国王」の金印が製作されたとして
  • 辺長が、後漢時代の一寸に合っている。
  • 鈕にある魚子鏨(ななこたがね)の文様は、同一の鏨(たがね)によって打ち出されている。
  • 文字は、Ц型とV型の箱彫りに近い形で彫られ、字体もよく似ている。
を指摘し、偽造説を退けている[23]
宮崎市定は著書『謎の七支刀』[24]で、同僚の中村直勝から、金印の真物が2個存在する事を聞かされたと記している。

6. 脚注


  1. 入田整三「国宝漢委奴國王金印の寸法と量目」『考古学雑誌』、1933年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
  2. 200ccメートルグラスに金印を入れ、増水量を三度測った平均値
  3. 金と銀だけなら22.5K
  4. 岡部長章「奴国王金印問題評論」『鈴木俊教授還暦記念東洋史論叢』、1964年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
  5. 『金印辨』、1784年
  6. 『金印議』、1784年
  7. 『後漢書』に「倭奴」とあることから、金印における「委奴」を略字(委は倭の減筆)とする。
  8. 三宅米吉「漢委奴国王印考」『史学雑誌』、1892年。三宅米吉は「奴」は儺津(なのつ)・那珂川の「ナ」で、倭の奴国を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定した。
  9. 『漢委奴国王印綬考』、1784年
  10. 『漢委奴国王金印考』、1784年
  11. 久米雅雄「金印奴国説への反論」『金印研究論文集成』、新人物往来社、1994年
  12. 三雲⇒井原鑓溝⇒平原遺跡など大量の鏡を伴う紀元前1世紀頃~後3世紀頃にかけての王墓が伊都国(前原市付近)に集中していること、『魏志倭人伝』を読むと伊都国には「世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」と歴代複数の王の存在が明記されているのに対し、奴国には王の存在を示す記事、あるいは「かつて奴国に王あり」といった記載がなく、中国は伊都国王を承認の王としていること、印学的には蛮夷印の印文の構造は基本的には「宗主国+国名(もしくは民族名)+官号」(+修飾語)から成り立っており「漢の委の奴の国王」のように「宗主国+民族名+国名+官号」の構造をもつ印章はみられないことなどを綜合して「委の奴」国説は成立しえないとする見解である(久米雅雄「晋率善羌中郎将銀印及周辺歴史之研究」『国際印学研討会論文集』(中国・西泠印社、2003年))。
  13. 藤堂明保編『学研漢和大字典』学習研究社
  14. 久米雅雄『日本印章史の研究』(雄山閣、2004年)、久米雅雄「国宝金印『漢委奴国王』の読み方と志賀島発見の謎」(立命館大学考古学論集、2005年)、「国宝金印の読み方」(『月刊書道界』2009年8月号、藤樹社)
  15. 西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』吉川弘文館1994年、87頁
  16. 西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』吉川弘文館、1994年、88頁
  17. 西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』吉川弘文館、1994年、52-54頁
  18. 金印が発見された同年に『金印辨』を著している。それによると『後漢書』東夷伝の光武帝中元2年(57年)の記事をあげて、光武帝によって授けられた金印と断定した。
  19. 金印 - 文化財情報 - 福岡市の文化財
  20. 岡崎敬「漢委奴国王」金印の測定 『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
  21. 三浦佑之『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』 幻冬舎新書、2006年 ISBN 978-4344980143
  22. 志賀島「金印」に偽造説再燃 地元の反応は複雑、asahi.com、2007年3月3日
  23. 第267回活動記録、邪馬台国の会、2008年3月30日
  24. 『謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本』 中公文庫1992年、18頁 ISBN 4-12-201869-2

7. 参考文献

8. 関連項目


Wiki: 倭
やまと)は、
  1. 紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。とも記す。※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
  2. 奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。※「大和」を参照のこと。
コンテンツ:
1. 概要
2. 語源および語義
3. 倭のクニグニ
4. 脚注
5. 関連項目
6. 出典
7. 参考文献

1. 概要

1. 1. 「日本」の前身としての「倭」

倭国」および「倭人」も参照
倭および倭人の指し示す範囲は時代と研究によって変遷し、中国の百越のひとつである倭人[1]朝鮮半島南部に居住していたとされる「倭人」を含むこともあったが、ヤマト政権(倭国)による日本列島統合が確立していった5世紀-7世紀ごろ以降、「倭」の呼称は、日本列島における倭国の支配範囲およびその住民に限定されていった。倭国は「大倭国」「大和国」とも呼称され、7世紀後半には国号を日本に改めた。

1. 2. 「大和」の前身としての「倭」

大和」も参照
奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類(i、e、o)と乙類(ï、ë、ö)の音韻があったといわれる。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる[2]
8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である[3]。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。
737年天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして、752年天平勝宝4年)もしくは757年天平宝字元年)橘奈良麻呂の変直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』である。

2. 語源および語義

「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。よって解字は「ゆだねしたがう」となる。
隋書』ではとも記し、『隋書』本紀では「倭」、志・伝で「俀」とある。「俀」は「倭」の別字である可能性もあるが詳細は不明である[4]
日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説がある。
の官人、如淳は「人面に入れ墨する(委する)」習俗をもって倭の由来と論じたが、臣瓚や顔師古らから、「倭」と「委」の音が異なることなどを理由に否定されている[5]。日本人の著作では、平安時代初期の『弘仁私記』序にはある人の説として、倭人が自らを「わ」(われ)と称したことから「倭」となった、とする説を記している。一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。江戸時代木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。また、新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。このように多くの見解があるが、いずれも定説の域には達していない。
代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。また、平安時代の『日本書紀私記』丁本においても、倭の由来は不明であるとする。さらに、本居宣長も『国号考』で倭の由来が不詳であることを述べている。これらから、倭の意味は未だ不明とするのがむしろ妥当である研究者がいる[6]
いっぽう「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。『詩経』(小雅四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対し、「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。

3. 倭のクニグニ

冒頭で掲げたように、「倭」には日本列島および奈良盆地という2つの意味があるが、ここでは広義の「倭」つまり日本列島における小国分立時代のクニグニについて若干ふれる(小国連合が成立して「倭国」というひとつのまとまりが生まれてからについては「倭国」を参照のこと)。
魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡市春日市およびその周辺を含む福岡平野が比定地とされている。この地では、江戸時代に『後漢書』東夷伝に記された金印漢委奴国王印」が博多湾北部に所在する志賀島の南端より発見されている。奴国の中枢と考えられているのが須玖岡本遺跡(春日市)である。そこからは紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。
伊都国」の中心と考えられるのが糸島平野にある三雲南小路遺跡前原市)であり、やはり紀元前1世紀の王墓が検出されている[7]
紀元前1世紀代にこのようなクニグニが成立していたのは、玄界灘沿岸の限られた地域だけではなかった。唐古・鍵遺跡の環濠集落の大型化などによっても、紀元前1世紀には奈良盆地全域あるいはこれを二分、三分した範囲を領域とするクニが成立していたものと考えられる[7]

4. 脚注

  1. 項目「倭人」の「倭族」参照
  2. 松本馨編(2001)「邪馬台国論争」p.14
  3. 白石(2002)p80、原出典は直木孝次郎(1970)
  4. 井上訳注『東アジア民族史I』(1974)pp320-1.また加藤『漢字の起源』九(1970)
  5. 西嶋(1999)『倭国の出現』
  6. 神野志(2005)『「日本」とは何か』
  7. ^ 白石(2002)p.40-43

5. 関連項目

6. 出典

7. 参考文献

  • 松木武彦『全集日本の歴史1 列島創世記』小学館、2007年。ISBN 4-096-22101-5

Wiki: 倭国
曖昧さ回避
この項目では、弥生時代から飛鳥時代にかけての日本列島の政治組織・国家について記述しています。日本列島の地理名称としての古名については「」を、倭の住民については「倭人」をご覧ください。
倭国(わこく)は、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。朝鮮半島における百済新羅に対応する語。7世紀後半に国号を「日本」に改めた。
コンテンツ:
1. 概要
2. その他
3. 脚注
4. 関連項目
5. 出典
6. 参考文献

1. 概要

1. 1. 小国の形成と倭国大乱

詳細は「倭#倭のクニグニ」、「倭国大乱」をそれぞれ参照
「倭」ないし「倭人」が、中国の歴史書物に登場するのは、弥生時代中期頃[1]のことであり、中国では、『漢書』や『論衡』の記された前漢代にあたる。『漢書地理志』には、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人は定期的に漢の植民地楽浪郡を介して漢王朝(前漢)へ朝貢しており、多数の(『漢書』には「100余」と記す)の政治集団(国)を形成していたことが知られている。
魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡平野が比定地とされている。この地からは『後漢書』東夷伝に記された金印漢委奴国王印」が出土しており、奴国の中枢と考えられる須玖岡本遺跡春日市)からは紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。また、「伊都国」の中心と考えられる三雲南小路遺跡前原市)からも紀元前1世紀の王墓が検出されている[2]
1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国の首長が、後漢光武帝から倭奴国王に冊封されて金印(委奴国王印)の賜与を受けている。本文は以下。
後漢書』「東夷傳 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
これは北部九州における倭人の政治集団の統合が進み、その代表として倭奴国が後漢へ遣使したと考えられている。
その約50年後の永初元年(107年)には、倭国王帥升が後漢へ遣使し、生口(奴隷)を160人献呈している。
『後漢書』「東夷傳 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」」
文献に名の残る日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられている。後漢書は遥か後代の編纂であるが、このことから、1世紀末から2世紀初頭にかけて、倭国をある程度代表する政治勢力が生まれたとする見解がある。これ以降、7世紀最末期までの間、倭・倭人を代表する/統合する政治勢力は「倭国」を称し続けた。
帥升以降、男子が倭国王位を継承していったが、2世紀後期になると倭国内の各政治勢力間で大規模な紛争が生じた。

1. 2. 魏志倭人伝と卑弥呼

詳細は「魏志倭人伝」、「卑弥呼」をそれぞれ参照
『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝には邪馬台国をはじめ、対馬国一支国末盧国伊都国奴国黒歯国などの諸国についてかなり詳細な記述がみられる。邪馬臺國王卑弥呼の国から親魏倭王の称号を授かった。
卑弥呼の次は男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與・壹與(台与参照)が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生末期の倭国は女子が王位に就くことがあった。
この大乱は、邪馬臺國・邪馬壹國(邪馬台国参照)に居住する女子の卑弥呼が倭国王に就くことで収まった。卑弥呼の次は男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與・壹與(台与参照)が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生末期の倭国は女子が王位に就くことがあった。

1. 3. 倭の五王とヤマト王権

詳細は「ヤマト王権」、「倭の五王」をそれぞれ参照
台与以後、しばらく倭国による中国王朝への朝貢の記録は途絶えていた。いっぽう、日本列島の各地に政治勢力(筑紫吉備出雲ヤマト毛野など)が形成されていった。そのなかで、おそくとも4世紀前半代に成立したとされるヤマト王権の王たちは対外的に「倭王」・「倭国王」を称したと考えられており、4世紀後期ごろからは東晋など南朝への朝貢が再びみられるようになり、この朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の王が知られる。
倭国王は、大陸王朝に対しては倭国王もしくは倭王と称したが、倭国内においては、熊本県の 江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文に「台天下獲□□□鹵大王」とあったことから王または大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と称していた[3]。この時期から倭国は大陸とは別個の天下であるという意識が生じたのだとする説が有力となっている。

1. 4. 「倭国」から「日本」へ

隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される607年に俀國王多利思北孤から派遣された遣隋使の使者が持参した隋への国書では、俀國王(倭国王)の表記を用いず、「日出處天子」(日出ずるところの天子)と記している。これは当時の仏典『大智度論』(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書)などに「日出処是東方 日没処是西方」とあるように東方にあることを示しただけとする考えもあるが、倭国王の表記を忌避したものと見る考えもある。その後、7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のままであった。

<国号改称記事>
『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
「日本國者倭國之別種也 以其國在日邉 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
『新唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
「咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本 使者自言國近日所出以爲名 或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」
『宋史』 卷四九一 外國伝 日本國
「倭國者 本倭奴國也 自以其國近日所出 故以日本爲名 或云 惡其舊名改之也」
『三国史記』「新羅本紀」文武王十年十二月
「倭國更號日本 自言近日所出以爲名」
660年、百済が滅びると倭国はその復興を企図し、新羅とのあいだで663年に白村江の戦いを663年に戦うが敗北し、朝鮮半島からの完全撤退を余儀なくされた。これを受け倭国内部では、国制整備・国力増強への志向が急速に強まった。667年の壬申の乱に勝利した天武天皇は、律令国家建設を加速し、その過程で、倭国・倭という表記を忌避する意識が再び高まったと推定される。7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了したが、同律令施行直前の701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされている。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えた。
このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されている。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されている。また、朝鮮半島の史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。
その後も日本国内では、しばらく日本を指して「倭」と呼ぶこともあったが、奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。また、「日本」は当初は「ヤマト」と読まれていたが、やがて「ジッポン」「ニッポン」などと音読されるようになり、それが平安時代頃に定着し、現在へ至ったとされる。

2. その他

2. 1. ワークワーク

中世イスラム世界では、9世紀にイブン=ホルダーズベが記した「諸道と諸国の書(英名:The Book of Routes and Kingdoms)」や中世に成立した「千夜一夜物語アラビアンナイト)」などに、中国やインドの東方にある国として「ワークワーク(waqwaq)」という地名が記されており、これは日本のことで「倭国(Wa-qwaq)」のことであると考えられている。

2. 2. 九州王朝説

1世紀には倭国が北部九州を中心とした地域に成立し、倭国王は博多湾近くの倭奴国に首都をおいて漢に朝貢し、後には大宰府に都を移して7世紀末まで存在したとする九州王朝説がある。しかし、査読を経た学術論文で九州王朝説を扱ったものは皆無であり、九州王朝説に賛同を表明した歴史学者及び考古学者は存在しない。

3. 脚注


  1. 国立歴史民俗博物館春成秀爾らによって稲作開始時期の年代が従来よりも約900年さかのぼるという編年上の問題提起がなされたため、弥生時代における時代区分についても見直しがはじまっている。ここにおける「中期」は、当該年代論提唱以前の時代区分による。
  2. 白石(2002)p.40-43
  3. 西嶋定生はこの治天下大王号の成立を倭国における「小中華主義」であり、その萌芽であると見ている。一方で、小中華思想とは17世紀のが衰えが出てきた頃に中華文明を模していた李氏朝鮮で生まれた言葉・思想であり、「中華文化(大中華)が最高のものであり、その中国と同等か、次を行く文明国(小中華)であるとする思想」と定義する研究者もおり(河宇鳳著『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』等)、この場合、ヤマト王権の「中華王朝と異なる別の天下であるという意識」は「小中華」に該当しない。

4. 関連項目

5. 出典

6. 参考文献

カテゴリー: 日本の古代国家倭人伝日本



Wiki: 奴国
奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀 - 3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」にあらわれる人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市付近に存在したと推定される[1]
倭国後漢と外交交渉をもったのは、以下の史料が示すように倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したのが始まりである。その後になって、邪馬台国の皇帝に使者を派遣している。


金印の印面
『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたという。江戸時代に農民が志賀島から金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明された[2]
その金印には「漢委奴国王」と刻まれていた。(刻まれている字は、でありではないが、委は倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭である。このように偏や旁を省略することを減筆という。)[3]
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

- 『後漢書』東夷列傳第七十五
建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。安帝の永初元年(107年)、倭国王は帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見を請い願った。
一方、時代がやや下って[4]三国志魏志倭人伝には、3世紀前半の奴国の様子が記録されている。[5]
東南至奴國百里 官曰兜馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

- 『三国志』魏書東夷倭人
訳文:東南の奴国まで百里ある。そこの長官を兕馬觚(じまこ、じばこ)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。
なお、魏志倭人伝には、もう一ヶ所「奴国」があらわれる。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國(中略)次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國

- 『三国志』魏書東夷倭人
訳文:自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載し得たが、その余の旁国は遠く険しくて、詳細を得られなかった。次に斯馬国(中略)次に奴國有り 此れ女王の境界の尽くる所なり その南に狗奴國有り
文字通り、九州の奴国とは別に、近畿大和から見て東の伊勢付近に別の奴国があったという説と、西日本を周回し同一の九州の奴国を2度記したとする説、あるいは何らかの文字が脱落したとする説がある。
コンテンツ:
1. 脚注
2. 関連項目
3. 外部リンク

1. 脚注


  1. 福岡県那珂川町を源流とし博多湾に注ぐ二級河川の名称が那珂川(なかがわ)であり、博多湾はかつて那津(なのつ)と呼ばれていた。
  2. 金印偽造説もあるが反論もある。
  3. 金印については少数説として、「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じて、委奴を「伊都国」にあてる説や、匈奴と同じく倭人を蛮族として人偏を省略し委奴(わど)の意味とする説がある。
  4. ただし、三国志の成立は3世紀末、5世紀に成立した後漢書にはるかに先行する。
  5. 『後漢書』東夷伝に記されている倭奴国と「魏志倭人伝」に記されている奴国が同一の国かどうかは確定していない。

2. 関連項目

3. 外部リンク


令制国一覧
五畿七道

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東海道
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Wiki: 倭の五王
倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝東晋朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。
コンテンツ:
1. 年表
2. 天皇と倭の五王
3. 脚注
4. 関連項目
5. 外部リンク

1. 年表

413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢している。それを年表にすると次のようになる。
倭の五王、外交年表
西暦中国王朝中国元号倭王用件
413年東晋義熙9東晋に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)[1]
421年永初2に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王。(『宋書』倭国伝)
425年元嘉2司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』倭国伝)
430年元嘉7讃?1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
438年元嘉15これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』倭国伝)
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』倭国伝)
443年元嘉20宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)
451年元嘉28宋朝から「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)
460年大明4済?12月、遣使して貢物を献ずる。
462年大明63月、宋孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477年昇明1興(武)11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝) (ワカタケル大王の銘文ーー672)
478年昇明2上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀、倭国伝)(「武」と明記したもので初めて)
479年南斉建元1南斉高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
502年天監14月、武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)[2]

2. 天皇と倭の五王

2. 1. 比定説

日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説がある。このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定である。他の有力な説として、「讃」が仁徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがある。「武」は、鉄剣・鉄刀銘文稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天王に比定され、和風号(『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説から、他の王もそうであるとして、「讃」を応神天皇の実名ホムタワケ[3]の「ホム」から、「珍」を反正天皇の実名ミヅハワケ[4]の「ミヅ」から、「済」を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネ[5]の「ツ」から、「興」を安康天皇の実名アナホ[6]の「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体については今のところ不確定である。
一方、「倭の五王」の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られない[7]ことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないとする説もある[8]。 使いを遣わして貢物を献じた目的として、中国大陸の文明・文化を摂取すると共に、南朝の威光を借りることによって、当時の日本列島中西部の他の諸勢力、朝鮮半島諸国との政治外交を進めるものがあったと考えられる[9]

2. 2. 『記紀』年次との対応関係

『古事記』に年次の記述は無いが、文注として一部天皇の没年干支を記す。この没年干支を手がかりに、倭の五王を比定する説がある。『古事記』は天皇の没年を次のように記す。
  • 十五代応神、甲午(394年)
  • 十六代仁徳、丁卯(427年)
  • 十七代履中、壬申(432年)
  • 十八代反正、丁丑(437年)
  • 十九代允恭、甲午(454年)
  • 二十一代雄略、己巳(489年)
  • 二十六代継体、丁未(527年)
『古事記』の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。しかし一ヶ所、『宋書』の記述と矛盾する。それは『宋書』倭国伝の次の記述である。
「讃死弟珍立遣使貢献」
元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝)
すなわち珍を讃の弟とする記述である。
『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。反正は履中の弟である。この一点を除けば、『古事記』の天皇没年干支から倭の五王が推測できるとも考えられる。
一方『日本書紀』の年次では、413年から479年の間の天皇は、允恭・安康・雄略の3名である。中国史書の5名との対応がとれない。また、421年の讃、436年の珍、443年の済という三人の遣使に対し、『日本書紀』のこの期間に該当する天皇は、411年から453年まで在位したとする允恭1人である。『日本書紀』の年次とは矛盾点が多く、対応関係がとれない。
しかし、そもそも『古事記』、『日本書紀』とも倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない。また、記紀の史料批判により、継体天皇以前の編年は到底正しいとは言えず、このころの王家内部では文字による記録が常時取られていたとは考えがたいことから、記紀に伝えられた干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試み自体をあまり意味がないとする意見も根強い。

3. 脚注

  1. 倭の五王かどうかは不明。ただし、『梁書』諸夷伝には「晋の安帝の時、倭王讃有り」という記述がある。
  2. 鎮東大将軍→征東将軍では進号にならないため、征東大将軍の誤りとされる
  3. 和風諡号『古事記』品陀和氣命、『日本書紀』譽田天皇。『日本書紀』一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇、『播磨国風土記』品太天皇、『上宮記逸文凡牟都和希王
  4. 和風諡号『日本書紀』多遅比瑞歯別尊、『古事記』水歯別命
  5. 和風諡号『日本書紀』雄朝津間稚子宿禰尊、『古事記』男淺津間若子宿禰王
  6. 和風諡号『日本書紀』穴穂天皇。穴穂皇子
  7. 『日本書紀』の雄略天皇紀五年条「呉国遣使貢献」、八年二月条「遣身狭村主青檜隈民使博徳使於呉国」十年九月条「身狭村主青等将呉所献二鵝」などに見られる「呉国」を南朝の諸国家と見る意見がある。
  8. 主として江戸時代後期の国学者によって唱えられた説(本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』他)。現代では、九州王朝説など。
  9. なお、倭の五王と南朝との交流が、東晋の南燕征服による山東半島領有(410年)以後、北魏の南進が本格化する470年代にかけての時期に集中しているのは、山東半島の南朝支配によって倭及び三韓からの南朝への航海に対する安全性が増す一方で、東晋の東方諸国に対する政治的・軍事的圧力を無視できなくなったからである、という見解を大庭脩川本芳昭は取っている。

4. 関連項目

5. 外部リンク

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