サイクロンじゃなく、タイふ~~~んが来る、笑い
サイクロンがくる
一九九〇年、イルカの母子が、どのようにホイッスルを使うかを調査しようとモンキー・マイアを訪れると、キャンプは閉鎖状態に近く、ブルドーザーの群れが、騒音を立てながら地面を掘り返していた。モンキー・マイアは、ひなびた小さな釣り場から、テニスコート、プール、カプチーノを出すオープン・カフェ、観光客用のバンガローなどを完備したリゾートへ変わりつつあった。これらは、避けられない変化で、モンキー・マイアのイルカは、西オーストラリアで一番の観光の目玉になった。しかし、私たちにはこの変化はとても不安だった。観光客が増えるにつれて開発が進み、イルカと海にますます危険が迫るのを避けられない。
モンキー・マイアでの生活は、開発が進むにつれて、変わることは分かっていたので、決して、
「笑って済ます」
ことはできなかった。
ここでの生活は、カリフォルニアに戻ってVWでする生活よりも、便利でぜいたくになった。初めのころ、私たちは小さなテントで過ごして、火を起こして、煮炊きをした。その後、テーブルと簡単なベッドが置けて、大きなテントの中で、人が立てるまでになった。大きなテントはヨットの帆のように、強い風雨に耐えて、巧みに風を逃した。その後、テントを横に備えた「キャラバン(移動式トレーラー)」を購入し、生活はさらにぜいたくになった。キャラバンには、家具やガスストーブを備えて、キャラバンの堅い壁は、砂やホコリを寄せつけなかった。
私は町中よりも、自然の中の方が心地よいと感じるので、文明から隔離されているシャーク湾のような場所でも、怖くはなかった。塩分の多い水で洗濯し、テントで寝て、バケツで皿を洗うことも気にならなかった。だが、モンキー・マイアの生活の中で、天候だけは怖かった。私は、一九八八年五月二十一日の天候を体験して、深い恐怖心を抱くようになった。
テントの布がパタパタ音を立てるので、朝早く目覚めた。緩く閉じているテントの入り口を風が引っ張り(テントはキャラバンの横に備えつけられている)、夢見心地で風が強まるのに気づいた。ハッチに当て木をして、ボートをチェックする必要があったが、まだ起きたくなかった。昨日の午後、ボートをしっかりと固定したが、ボートが係留場所から外れて、ビーチに乗り上げるか、嵐の海をマダガスカル島へと流されるかもしれないと心配だった。私は係留場所には行きたくなかった。しかし、風は唸りを上げ続けて、何もかもが揺れてガタガタ、パタパタと音を立て、とうとう金属製の皿がテーブルから落ちたので、完全に目が覚めてしまった。キャンプの発電機が止まっていたので、ベッドのそばの懐中電灯を手探りで探した。幸いにも、落ちたのはスパゲッティの食べ残しが入っている皿ではなかった。
外へ出ると、他の人たちは、みな起きていて、キャンプの周りを動き回って、ボートをチェックして、テントを固定していた。懐中電灯の光を浜の方へ向けて、上下させると、人や、キャラバンや、テントの輪郭が、時々浮かび上がった。よりによって、風は北西から強く吹きつけていた。大嵐が海から一直線に来る時の風の方角だ。
風と水の音がとどろいて、髪が耳の周りにまとわりついて目に入る。水際に下りると、私の小型ボートは、鉛色の空へ向かって垂直に立っていて、波にほんろうされて海底にぶつかっている。ボートの底が海底に衝突していないことを祈った。
私は突風で倒れそうになった。砂がすねに当たってヒリヒリする。物の衝突する音がキャンプの周囲から聞こえてきた。ゴミ箱のふたや、固定されていないものが、吹き飛ばされていた。私は真っ先にテントを気にかけたが、テントの布が、強風に耐えられずに破れることは確実だった。前柱の一本が外れて、支えが効かなくなっていたので、私は柱を引き戻して、先端をハトメの穴に突っ込もうとした。しかし、布が大きくはためいて、突っ込めなかった。
テントには、テーブル、皿、ポット、鍋、バケツ、ボート用具、机、本、紙入れ、電気機器、衣服、ベッドなどが詰まっている。私は、風に逆らって足を踏ん張り、テントの支柱に寄りかかって、布が破れたらどうなるかを考えた。テントの中身が、ばらばらに飛び散るだろう。だが、支柱を支えているだけではダメだ。布が破れて、テントの中が、ごちゃ混ぜになり始めたので、私に選択の余地はなかった。風上の布が裂けて、風が吹きぬけるままになった。紙類や、カメラなど持ち出せるものは何でも、急いで持ち出した。
マフラーつきの発電機のモーターの音が聞こえてきて、電気がちかちか灯る。普段の夜なら、発電機は止まっていて、キャンプは暗い。私は心臓が飛び出しそうになり、胸が悪くなった。というのも、非常事態でない限り、メイソンが夜中に発電機を動かすことはない。私の不安が的中したのだ。
もう一度、ボートを見ようと思って引き返すと、冷たい雨が激しく降りかかってきて、ボートは大きく揺れて浸水して重い。すべての重量が錨のロープにかかると、ロープは耐えられない。ロープは今にも切れそうだった。ロープが切れれば、私の手に負えそうになかった。私は、風雨の中で震えながら、しばらく立ちすくんでいたが、目から涙があふれて頬を伝わった。私がどうすれば良いかと戸惑っていたとき、メイソンの義理の息子クレイグが現れた。クレイグは穏やかで気さくで陽気な子だったが、彼でさえ不安になっているのが、すぐに見て取れた。
「モーターを外すのを手伝うよ」
と、クレイグが風の音に負けないように大声で言った。
水浸しになると、モーターが壊れるので、二人で海に入って、力ずくでモーターを外した。クレイグがモーターをその付近でいちばん頑丈そうな、石炭ガラでできたトイレに運び入れた。
私はキャラバンへ戻る途中で、年長のカップルのキャンプのそばを通りすぎた。ふたりとは、二週間ばかり楽しく過ごしていた。ふたりとも、八十歳代で、長年、モンキー・マイアを訪れていた。彼らのテントは、ずぶぬれの塊になって、二、三本の支柱のそばに転がっており、残骸があたりに散らばっていた。ふたりとも、目を大きく見開いて、車の中で身を寄せ合っていた。
浜では、波が砕けていた。キャラバンへ戻ると、テントは完全につぶれていた。ポットと、鍋と、皿が地面に散らばっていて、ベッドの脇にある本箱は、ずぶぬれになっており、シーツと毛布の間には、水たまりができていた。キャラバンの一メーターくらい前で、波が激しく砕け散っていた。風に吹かれてできる塩っぽい泡が、波の頂点から吹き出している。できるかぎり多くの荷物を車に積み込んで、嵐にさらされる浜の前線から、車を後退させるしかないと悟った。キャラバンやボートなどは、見捨てるしかなく、最善の結果になるのを期待するだけだった。
人間ニッキーが現れて、私の持ち物を車に入れるのを手伝ってくれた。記録がすべて入っているコンピュータ、ノート、カメラ、双眼鏡、ビデオ、重要な記録を閉じたファイル・フォルダーと数冊の本などを積みこんだ。波がキャラバンにぶつかって砕け散り、うずたかく積み上がった荷物の中に流れ込んだ。
ニッキーと私は、ワゴンに飛び乗って、トイレの風下へ移動した。ここは、浜の前線と比べて風雨が弱く、エンジンを切って、ふたりで身を寄せ合って座った。曇ったフロントガラスが、突風で激しく揺れていた。私たちは、ずぶぬれになって不安でいっぱいだった。デビーが私の車の横に小さなバンをつけようとしていたが、私たちは、声をかけることもできずに、座ったままでその様子を見ていた。私たちの頭上を、ゴミ箱のふたや、テントの破片や、衣類などのがらくたが飛来していて、物が衝突して、耳をつんざく大きな音がする。
夜が明けると、空は乾いた血の色をしていた。一時間経つと、騒音が消えて、薄気味悪い静寂が訪れたので、ためらいながら、車のドアを開けて外に出てみた。他の人たちも避難場所から出てきた。外は驚くほど静かで、浜の前線が、かろうじて見えるだけだった。
ボートは停泊場所に一そうもなくて、ひっくり返って、波に洗われているボートが数そう岩場にあった。モーターがボートの周りに散らばっていた。岩場の上に吹き飛ばされて、キャンプ場よりも高い位置に乗り上げているボートもあった。桟橋も吹き飛ばされて、数本の杭だけが残っていて、海面から突き出している。浜には、板切れが散らばっており、海草と砂の山の間に、たくさんの残骸があった。海の水が急に引いて、私は湾内が空になるかと思った。高潮の後に、潮が急に引き、浜辺近くの海盆が現れた。沖には、数そうのボートが転覆して浮かんでいた。絡まったロープや残骸が、ボート同士をつないでいるかのように見えた。私のボートはその中にあったが、沖はまだ激しく波立っていて、薄気味悪く、白く霞んでいた。
このような状況なので、私は取り乱していた。イルカに気をかけたのは束の間だったが、ようやく、イルカのことが心配になってきた。こんなに海が荒れていて、イルカは息ができたのだろうか、浜へ打ち上げられていないだろうかと心配した。
イルカは、水から長い間は離れられない。イルカには、水の冷却効果が必要で、水がなければ、体温が上って、皮膚が乾いて、太陽にさらされると、水ぶくれができる。また、水中では、重力の影響をあまり受けないが、地上では、すべての体重がかかって内臓がつぶれる。前回、サイクロンがシャーク湾を襲ったときには、数頭のイルカがデナム付近の浜に打ち上げられた。イルカは、太陽から身を守るために、海草の山の下に身を隠して、湿気を取ったらしい。
モンキー・マイアに隣接する浜を歩くと、幸なことに、イルカは打ち上げられていなかった。山積みになった海草、ボートの破片、キャンプの備品、死んだ魚、海の生き物の残骸などがあった。かなりの手間をかけないと、これらすべてを片づけられそうになかった。だが、幸運なことに、建物は壊れずに、けが人も出なかった。
被害状況を調べていると、風がまた激しくなった。今度は南風で、後方から、浜へ向かって吹きつけていた。風が勢いを増してきて、後方に飛ばされたゴミ箱のふたやゴミの破片が、逆方向へ、つまり海の方向へ飛び始めて、風の勢いに気づいた。ニッキーと私は、走ってワゴンに飛び乗った。サイクロンの目に入って、一時的に小康状態になっていただけだった。私たちは、今は、巨大な空気の渦の反対側にいた。
二時間くらい経って、私たちはふたたび外に出た。空は晴れていたが、光は弱く、薄気味悪かった。他の人も外へ出て、ぼうぜんと歩き回っていた。常連さんたちは集まってしきりに話していたが、被害を受け入れていて、時々笑いながら話していた。常連さんたちが、早く立ち直ったのは疑いがなかった。彼らは、オーストラリア特有の強烈な自然に慣れているのだろう。嵐はシャーク湾の北部の海岸辺りに停滞して、急に向きを変えて、私たちを直撃した。気象予報が外れて、予想外の展開だったので、私たちは無警戒だった。だが、ボートが生きる糧であるデナムの漁師には、最悪の展開だった。
嵐の後の数日間、モンキー・マイアの人たちは一致団結した。生活場所を確保できる人が、確保できない人にベッドを貸して、食べ物を分け合って、ゴミを協力して片づけた。短期滞在者や、運悪くモンキー・マイアを訪れた観光客は、持ち物をワゴンへ積み込んで、シャーク湾を離れた。彼らが、ふたたびモンキー・マイアに戻って来ることはないと思えた。
人間ニッキーとデビーと私は、怖いもの知らずの若手として、シュノーケルとフィンをつけて、サメがうようよいる海で泳いだ。老漁師には、私たちが必要だった。私たちは、老漁師のボートからさらわれて、海の底に沈んだ道具を探し回った。数時間かけて、海底をゆっくりと探すと、道具箱や、網や、モーターや、ちぎれたロープが見つかった。海水でダメになっていたものも多かったが、使えるものもあった。私のボートは良いほうだった。ひっくり返ったボートを元に戻して、絡まったロープをほどいて、モーターを取りつけた。ボートから消えていたのは、道具袋だけだった。
一週間くらいで、キャンプの状態が回復したので、私は早起きして、イルカに会いに出た。ホーリーは浜にいたが、気だるそうに見えた。私がシュノーケルとマスクをつけて勢いよく海に入ると、ホーリーは私を見ながら沖で待っていた。ホーリーもいっしょに泳ぎたいようで、がまんしながら私を待っているのが分かった。私は慌ててフィンをつけようとして倒れた。私がホーリーに近づくと、ホーリーはホイッスルを出した。イルカの本来の生息地で出会うのと、モンキー・マイアで出会うのは大違いだった。首をピンと張り詰めて、人を見上げるのと違って、ここでは、優雅で落ち着いて自在だった。ホーリーは、ゆったりと私のそばへ滑り込んで来て、ほんの数インチ離れたところで半目を閉じていた。ホーリーがとても穏やかだったので、私もリラックスして、ホーリーのわき腹に手を伸ばした。ホーリーは、目を少しだけ開き、私を見ようと旋回して、元の位置に戻った。ホーリーは私のそばを離れず、私がホーリーの体に腕を回しても、ホーリーは私を受け入れた。私たちは並んだままで、深みへゆっくりと入った。
ホーリーがリラックスして、穏やかで暖かかったので、私もすぐに同じような気分になって、夢見心地で漂った。そして、ホーリーは、私の腕からゆっくりと離れて海底へ向かった。私たちは深さ約六メーターの地点にいた。私は、ホーリーを追って潜ろうかと考えたが、私のぎこちない泳ぎではダメだと思って、海面で待つことにした。ホーリーは海底で何かをつついていたが、水が濁っていたのでよく見えなかった。しばらくして、ホーリーは私のところに戻ってきた。そのとき、ホーリーは大きくて白くて重そうなものを、口にくわえて引きずっていた。ホーリーが近寄ってきて、くわえていたビニール袋を私に差し出したので、私が受け取ると、ホーリーは離れていって潜った。ホーリーは私と泳ぐのを終わりにしたようで、私はホーリーを追いかけてもムダだと感じた。ホーリーが、リラックスした気分をそれほどまでに表したので、私も、無理はしたくなかった。私はしばらく海の中を歩いていたが、そのビニール袋をどこかで見たような気がして開けてみた。中には、レンチのセット、プライヤー、ドライバー、点火プラグ、照明具が入っていた。それは私のボートから消えた道具袋だった。
いろいろな意味で、サイクロンがモンキー・マイアの常連さんたちと、私たちとの関係を変えるターニング・ポイントになった。私たちの間にあった、ずれや誤解が、嵐によって洗い流された。大きな力で、小さなずれを乗り越えて、しかるべき場所に行きついた。老ボンディーとは、バラ色の関係にならなかったが、常連さんの多くとは、急にうまくいくようになった。嵐をともに乗り越えたことがコミュニティーへの通過儀礼だった。
常連さんたちは、孤立した状況に慣れていて、互いに面倒を見合っていた。私たちは、常連さんからボートの基本的な修理の仕方、魚釣りの方法、ロープのつなぎ方、有効な結び目の作り方、天気の見方などを学んだ。今や、常連さんは、夕食用に新鮮な魚をいつでも提供してくれて、いっしょにビールを飲む仲になった。その当時、夕方には、浜をぶらつくのが慣例で、常連さんたちのテーブルで立ち止まって、釣れた魚をほめて、天気などについても話した。常連さんたちは、アカダイ、クロダイ、マグロ、タラなどの寸法を測り、冷凍するために内臓を抜いていた。私たちは、肩に乗っていた重石が取れたと感じた。密につながっているが、著しく気まぐれなコミュニティーの一員になれた。
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