「訳本企画書」 2005/05/26
翻訳者 青柳 洋介
Animals in Translation
Temple Grandin and Catherine Johnson
アニマルズ・イン・トランスレーション
━━自閉症の神秘によって、動物の行動を解読する(仮題)
テンプル・グランディン キャサリン・ジョンソン
SCRIBNER刊(356P ISBN 0-7432-4769-8 Copyright 2005 Simon & Schuster Inc.)
テンプル・グランディン━動物学の博士号をイリノイ大学から取得している。コロラド州立大学の助教授になり、Thinking in Picturesなど、自閉症に関する本を二冊書いている。彼女自身が自閉症だ。
キャサリン・ジョンソン━神経精神医学と脳を専門とする作家だ。Shadow Syndromesなどの本を三冊書いている。三人の息子のうち二人は自閉症だ。
注1) 版権がどのようになっているかは、アマゾン・ジャパンで訳書が出ていないこと以外は未調査です。
注2) ニューヨーク・タイムズのノンフィクション・ハードカバーのジャンルで4月13日時点で、二十五位くらいにランクされています。(5月7日時点でランク外です)
原著
翻訳本、NHK出版
おそらく、校正じゃなくて、検閲しているはず、都合が悪い部分はカット => 憲法違反
こう思う理由は?
マスメディア(日本の出版文化)が法螺吹き、風見鶏だから・・・
その結果、人でなしが大量生産された
● 本書の内容の概要
1章は試訳を行ないました。
2章以降は、面白いと思われる点を箇条書きしました。
【1章 私自身の物語】
自閉症でない人たちは、私が動物の思考法を理解できると気づいたときのことについて必ず尋ねる。直感を持っていたに違いないと彼らは考える。
しかし、そうではない。私が他の人たちとは違う方法で動物を見ている、と自覚するまでには長い時間がかかった。動物管理のために私を雇った牧場主よりも私のほうが大きな優位性を持っていると、四十歳代を過ぎてはじめて気づいた。それは私が自閉症であることだ。自閉症のために学校や社会生活でつらい思いをしたが、私のおかげで動物たちは楽になった。
子供のころは、動物と特別なつながりがあるとは思わなかった。動物が好きだったが、私には問題があって子犬と猫の違いがなかなか分からなかった。私の人生において、とてつもない危機だった。私が犬と思うものは、すべて大きなサイズをしていた。私はサイズで犬を見分けた。近所の人がダックスフントを買ったときは、とても混乱した。「それがなぜ犬なの」と言い続けた。見分けようとして、よくよく何度も見た。ダックスフントが私のゴールデン・リトリバーと同じ鼻を持っていることにやっと気づいた。犬は犬の鼻を持つと理解した。
私が五歳のころの力量はそれくらいのものだった。
母が私を感情障害がある子供たちのための全寮制養護高校に入れてから、私は動物と恋をし始めた。その当時は、周りの者たちは私のことを何かにつけ「感情障害」と言った。私が喧嘩するので放校されたため、母は私が次に行く場所を探さなければならなかった。子供たちがからかうので喧嘩した。彼らは、私のことを「あほ」とか「テープレコーダー」と呼んだ。
私がたくさんの文を記憶していたので、テープレコーダーと呼んだのだ。私は話すときにはいつでも、その文を何度も繰り返し使った。それに加えて、私がしたい話は二、三種類しかないために、からかいは増長した。私はカーニバルのローター{回転車}乗りの話がとくに好きだった。私は子供たちの上によじ登って、
「ナンタスケット公園に行った。ローター乗りに行った。壁に向かって押しつけられるのが本当に好きだった」とよく言った。その次に、
「あなたたち、これが好きだったでしょう」
というふうに言った。そしたら子供たちは
「とても好きだったよ」と答えた。
はじめから終わりまで、何度も何度もこの話を繰り返した。それで、子供たちは私をテープレコーダーと呼んだ。
からかいは心が痛む。子供たちがからかうので、私は頭にきて殴るのだ。単純なことだ。子供たちは必ずからかう。彼らは私の反応を見るのが好きだった。
新しい学校では、この問題はなかった。学校には厩{うまや}と子供たちが乗る馬がいた。私がだれかを殴れば、先生たちは馬に乗る権利を剥奪{はくだつ}した。子供たちが悪さをした場合に殴らずに泣けばいいと気づくまでには、権利を剥奪されてからかなりの時間が必要だった。暴力を振るう代わりに泣いた。人が意地悪をすると、私は今でも泣く。
からかっていた子供たちには何も起こらなかった。
学校の面白いところは、馬たちも感情障害を持っていたことだった。校長が金をけちって感情障害のある安い馬を買ったためだ。馬たちは行動上の大きな問題を持っていたので値段が安かった。可愛かったし立派な足をしていたが、感情的な混乱を持っていた。学校には全部で九頭の馬がいたが、二頭にはまったく乗ることができなかった。厩舎の中にいる半数の馬は、重大な心の問題を抱えていた。十四歳のころの私は、馬が抱えている問題を理解していなかった。
皆で寄宿していた。感情障害を持つ十代の生徒たちと感情障害を持つ馬たちが一緒に暮らしていた。レイディといういい馬がいた。馬場では乗ることができたが、道では暴れた。後ろ足を蹴上げ、たえず飛び回ったり跳ね回ったりした。勒{くつわ}で抑えていないと、厩へ向かって急に走り出した。
ビューティーという牡馬がいた。乗るには乗れたが、鞍上にいると蹴ったり噛んだりする悪い癖があった。足を振り上げて鞍上者の足を蹴り、頭を回して鞍上者の膝を噛んだ。用心しなければならなかった。ビューティーにまたがろうとすれば、いつも蹴ったり噛んだりした。足と頭を鞍上者に同時に向けた。
しかしゴルディーという雌馬は比べ物にならないほどやっかいだった。背中に乗ろうとすると、かならず後ろ足を蹴上げ座り込んだ。乗れない馬だった。鞍に座ることしかできなかった。乗るとゴルディーはかならず汗をかいた。五分もするとびしょ濡れになってしまう。怖がっているのだ。乗られるのを恐れていた。
だが、ゴルディーは美しい馬だった。胴体は明るい茶色で、たてがみとしっぽは金色だった。アラブ馬のように細身で美しかった。グランド・マナーは完璧だった。手綱を引いて歩かせたり調教したり、やりたいことは何でもできた。乗ろうとさえしなければ、思い通りに動かせた。これは神経質な馬がかならず抱えている問題のように思える。しかし、他の場合もある。「乗れるには乗れるけど、それしかできないよ」と言われる馬を知っている。このタイプの馬は、乗っている人には好都合でも、乗っていない人には都合が悪い。
学校の馬はひどい扱いを受けていた。ゴルディーを売った婦人は、できの悪い尖ったくつわ{、、、}を使って力任せに引っ張っていたので、ゴルディーの舌はねじれて変形していた。ビューティーは一日中、搾乳用の柱につながれていた。私にはわけがわからない。馬たちはひどい扱いを受けて痛めつけられていた。
しかし、このことを若いころには理解できなかった。私は学校でけっして馬に意地悪をしなかったが、他の子供たちはときどき意地悪をした。だが、彼らは馬と話せる自閉症サヴァンではなかった。私は、ただ馬が好きだった。馬に囲まれて暇さえあれば厩{うまや}で働いた。一生懸命に厩を清潔にし、馬の身づくろいをした。高校時代に、母がイギリス製のすばらしい馬ろくと鞍を買ってくれた日は、うれしかった。私の人生でもっとも大きな出来事だった。学校に置いてあるできが悪い鞍ではなく、自分用のできが良い鞍だった。伝統があるマクレランド製の鞍に乗った。南北戦争ではじめて使われた騎馬隊用の正真正銘の鞍だった。学校で使っていた鞍は、軍隊に騎馬隊があった第二次世界大戦のころに使われたものだった。マクレランド製の鞍は、馬の背中を分離するのに中心から下に溝が付いている。溝は馬には都合が良いが、乗り手には勝手が悪い。これよりも勝手が悪い鞍はないと思っている。だが、アフガニスタンの北部同盟の兵士が使っている木製の鞍は、もっとひどいと言わざるを得ない。
私はその鞍を大事に扱った。とても気にいっていたので、馬具部屋には収納しなかった。毎日、寮の部屋に持ち帰り自分のそばにおいていた。鞍を売っている店で、鞍用の石鹸と革用のコンディショナーを買った。数時間かけて鞍を洗って磨いた。
馬と共にいれば楽しかったが、高校時代はとてもつらかった。とどまることを知らない不安の波に襲われた。後になって卒業論文委員の前で論文を発表したときに感じた不安と同等のレベルの不安だった。昼も夜もずっと不安を感じていた。悪いことが起きていないのに、突如として不安になった。自閉症の遺伝子が活性化していると思った。自閉症はその大半が不安性錯乱のようなものだ。「精神障害のための診断と統計マニュアル」に載っている不安性錯乱だ。
動物が私を救ってくれた。アリゾナで観光牧場を経営するおばを訪れたある夏に、近場の牧場で牛の群れが「スクイーズ・シュート」に入れられるのを見た。スクイーズ・シュートとは、獣医が注射するときに、牛が動けないようにきつく固定する道具だ。下のほうが蝶番になっている大きなV字型をした金属の棒でできている。一頭の牛がシュートに入ると、エア・コンプレッサーがシュートを閉じてV字型にして牛の胴体を固定する。皮下注射の際には金属棒の間にスペースが十分にあり、牧場主は両手が使える。それがどんなものかを見たければ、ウェブサイトの写真で見ることができる。
私はシュートを見るとすぐに、おばに車を止めさせて観察した。スクイーズ・マシンの中にいる大きな牛の様子を見て釘付けになった。大きな金属の枠に胴体を突然に固定されると牛は怯える、と考えるのが普通だが、実際は逆だ。牛はまったく落ち着いている。十分な圧力は落ち着いた感覚をもたらすので、この現象は妥当だ。マッサージが心地よいのも同じ理由だ。つまり十分な圧力だ。新生児が生まれてすぐ感じるように、あるいはスキューバダイバーが水中で感じるように、スクイーズ・シュートはたぶん牛の気分を和らげる。牛はスクイーズ・シュートを好む。
牛が落ち着くのを見て、自分用のスクイーズ・シュートが必要だと知った。その年の秋に学校に戻ってから、先生に手伝ってもらい自分用のスクイーズ・シュートを作った。サイズを人間用に縮めた。エア・コンプレッサーを買い、V字型の棒には合板の木材を使用した。とてもうまくいった。スクイーズ・マシンの中に入ると落ち着いた。私は今でもマシンを使っている。
スクイーズ・マシンと馬のおかげで十代を過ごすことができた。馬と一緒にいた。勉強しなくても良いときや学校に行かなくても良いときには、馬と一緒にいた。ショーでレイディに乗ったことさえある。感情障害を持つ危険な馬がいる厩舎を持つ学校があり、年端のいかない生徒が馬に乗るのは、今では想像しがたい。最近は、生徒が怪我をしないようにと、体育の時間にドッジボールさえできない。しかし当時はできた。そんな学校に入れられたが、少なくとも私がいる間には、だれも大怪我はしなかった。うまくいっていた。
今でも、子供たちが馬乗りをできれば良いと思う。人と動物は共にあると思う。人は長い年月を動物と共に進化してきた。動物はいつもパートナーだった。今や、人は犬猫以外の動物と離れ離れになっている。馬は十代の子供たちにとって、とくに良いと思う。十代の患者をたくさん持つ精神科医の友人がマサチューセッツにいる。彼は馬に乗る患者にまったく別のことを予期している。同程度の問題を抱えている子供がふたりいるとする。ひとりは定期的に馬に乗り、もうひとりは乗らなかった場合に、乗る子供の具合が改善されると彼は言う。ひとつは、馬乗りには大きな責任が伴う。そのため、馬の面倒を見る十代の子供の性格が改善される。もうひとつは、馬に乗ることは鞍上者が手綱を引いて馬に命令することではない。ほんとうの馬乗りとは、舞踏会で踊るダンスのようなもの、あるいは、ペアのフィギュアスケートのようなものだろう。人と馬との関係性だ。
私の馬は右足先導だったのをはっきり覚えている。キャンターで輪乗りするときは、前足の片方のひづめをもう片方よりも前に出さなければならない。乗り手はそれを手助けしなければならない。自分の体を右側に少し傾けて、馬が右足先導になるのを手助けした。私はバランス感覚がとても悪かったので、いくら努力してもパラレル滑走のスキーを身に付けられなかった。プルーク滑走の上級には行けたけれども。だが、乗馬では自分の体と馬体の調子を合わせて、右足先導で走れる段階まで来た。
乗馬はとても楽しかった。ときどき馬に乗って、牧場をギャロップで走り、それがスリル満点だったのを思い出す。もちろん、しょっちゅう走るのは馬にとって良くない。日を置いて走った。私はとても浮き浮きした気分だった。外に出て試し乗りもした。ギャロップで道を駆け下りた。木々がヒューヒューと音をたてた。これは今でもよく覚えている。
しばらく乗馬すると本能的になる。良い乗り手と馬はひとつのチームだ。一方通行の関係ではない。人が馬に命令するだけではない。馬は乗り手に対しとても敏感だ。頼まないのに乗り手の要求にたえず反応する。学校の馬は騎乗方法を学ぶために使われる。馬は乗り手がバランスを失い始めるとトロットを止めてしまう。このため、馬乗りを身に付けるのは、自転車乗りを身に付けるのとまったく異なる。馬は人が怪我しないようにする。
十代の子供が馬から得る愛情はとても良いものだ。それはチームワークだ。扱いづらい子供は陸軍学校に入れる必要があると、長年、言われてきた。その手の学校は規律が厳しいので、この言葉は当たっている。だが、陸軍学校に馬がいれば、この言葉はもっと要領を得る。
「アニマルズ・イン・トランスレーション」は、私が動物と過ごした四十年の体験から生まれた。
この本は、私が読んだどの動物の本とも異なる。私が、動物に関わるどの人とも異なることが理由の大半だ。自閉症の人は動物と同じように考えることができる。もちろん、普通の人とは違っていても、普通の人と同じように考えることもできる。自閉症は動物から人へ至る道の途上にある駅のようなものだ。そのため、私のような自閉症の人は「動物の言葉」を正しく英語に翻訳できる。動物がなぜそのように行動するかを説明できる。
これが、自閉症なのに、私が成功した理由だと思う。動物の行動は、私にぴったりの分野だ。動物を理解できる代償として人間の社会の理解があまりできない。現在、私は三百以上の科学論文を出している。私のウェブサイトには、毎月五千のアクセスがある。動物の管理に関する講座を年に三十五受け持っている。自閉症に関する講座を二十五ばかり持っている。そのためほとんどの時間をあちこち飛び回っている。アメリカとカナダの牛の半数が私の設計した屠殺システムで処理されている。
大半は、私の脳が普通の人の脳と異なる働きをするおかげだ。
自閉症のおかげで、動物を職業としている人にも分からない別の見方ができる。普通の人にもその見方は分からない。動物は人が考えている以上に利口だ。ペットの持ち主や動物の愛好家の多くは「私の可愛いフラッフィーは考えることができるのよ」と口にする。しかし、動物の研究者は、この種のことを思い過ごしとして却下する。
しかし、私は老婦人たちのほうが正しいと考えるようになった。動物を愛している人や大半の時間を動物と共に過ごす人は、目に見える以上のものが動物にはあると、しばしば直感的に感じるようになる。ただ、それが何であるか、それをどのように表現していいかが分からないだけだ。
その答えを偶然に見つけた。私の考えることが答えの一部だ。ほとんど偶然だった。自分自身の問題のために、専門分野と同じくらい念入りに、人間の脳に関して神経科学の研究もした。動物だけでなく私自身の人生をどのようにするか、という答えも探し続けているし、探さなければならなかった。同時に二つの分野を追い求め、従来の動物学が見逃してきた、人間の知性と動物の知性の間にある関連性を理解するに至った。
自閉症サヴァンに関する研究が私の発見を誘発した。自閉症サヴァンとは、生まれた日が何曜日か当てる、素数かどうかを頭の中で計算するというようなことができる人だ。自閉症サヴァンは、必ずしもではないが、普通は知恵遅れの部類のIQしかない。だが、彼らは普通の人が教えられてもできないことを自然にやってのける。普通の人は身に付けようといかに頑張っても、いかに時間をかけて訓練しても真似できない。
動物は自閉症サヴァンに近い。実際に、私は動物が自閉症サヴァンだろうと言ってさえいる。動物は普通の人に無い特殊な能力を持っている。同様に自閉症サヴァンも普通の人が持たない特殊能力を持っている。少なくとも、普通の人に無い天才を持っている動物もいる。同様に自閉症サヴァンも天才を持っている。たいていの場合、自閉症の天才に生じるのと同じ理由で、動物の天才は生じると私は思う。自閉症の人と動物は、普通の人とは脳内に差異があり、そこから天才が生じる。
動物の特殊な能力に気づかずに、人が動物と共に生きてきた理由は単純だ。動物の能力に気づくことができなかっただけだ。普通の人は動物の持つ能力を持たないため、何を見たらよいかが分からない。普通の人は動物が行なっているすばらしいことを見ても、見ているものが何かがわからない。動物の天才は普通の目では見えない。
動物の持つすべての能力、あるいは、チャンスを与えさえすれば発揮するすべての能力を、私が分かるわけではない。しかし、自閉症サヴァンと動物の天才の間にある関連性が分かった今となっては、少なくとも私が何を探しているかを知っている。人が気づかないことに気づき、人が記憶できないとても細かい情報を記憶する驚異的な能力を動物がどのように使うかを探求している。その結果、動物と人の双方にとってよりよい生き方ができる。次のことは、私の頭に浮かんだ考えだ。目の見えない人の役に立つ犬はいる。記憶力が落ちてきた中年の人に役に立つ犬についてはどうだろうか。四十歳をすぎた人よりも、あるいは、四十歳以下の人よりさえも、車のキーを置いた場所をよく覚えている犬がいるのを請合う。
あるいは、子供がリモコンを置いた場所を覚えている犬についてはどうだろうか。犬を訓練すればできることを請合う。
もちろん、これが本当かは分からない。私が誤っているかもしれない。しかし、私にとって動物の能力を予測することは、天文学者が重力に基づいて惑星の存在を予測するのと似たようなものだ。私は自閉症の能力に基づいて、人には分からない動物の能力を正確に予測できるようになってきている。
動物を外部から見る、内部から見る
私は大学に入るころまでに、動物について学びたいと思うようになった。
それは、一九六〇年代のことだった。心理学の分野ではB.F. スキナーと行動主義がすべてだった。スキナー博士はとても有名だったので、アメリカの大学生はだれでも「自由への挑戦」を本棚に入れていた。学習することのすべては行動だと、彼は教えた。人あるいは動物の頭の中に入っているものについて推測しようとしてもだめだ。なぜなら、知性、感情、動機などの頭というブラックボックスに入っている中身をすべて知ることはできない。そのブラックボックスに立ち入ることはできないし、語ることもできない。行動のみを調べることができる。そのため、行動だけしか研究できない。
行動主義者によれば、問題となる唯一のことは環境だったので、これは大きな損失ではなかった。
動物には感情も知性もないと教えて、この考えを極端に支持した行動主義者もいた。動物にあるのは行動だけだ。行動は、報酬、罰、環境からの正、負の強化によって決まる。
報酬と正の強化子は同一物だ。つまり行動が原因で起きる良い結果である。罰と負の強化は対極にある。罰は行動が原因で悪い結果になる場合に与えられる。一方、負の強化は行動が原因で悪い結果になるのを止める、あるいは、そもそも始めないようにする。罰は悪い、負の強化は良い。罰は行動を止めさせる。動物にさせたい行動をさせる場合に、悪い行動に罰を与えることは、良い行動に報酬を与えることよりも効果的でない、と大半の行動主義者は信じているが。
負の強化はもっとも理解するのが難しい。負の強化は罰ではなく報酬だ。しかし、その報酬は、望まない行動を止める、そもそも始めないようにするという意味において、負だ。たとえば、四歳の子供が泣き叫んで、いらいらする。最終的に、堪忍袋の緒が切れて子供を叱りつける。子供は驚いて黙り込む。これは負の強化だ。なぜなら、泣き止ませたからだ。それが望みだった。次回に子供がかんしゃくを起こすと、前回にかんしゃくを起こしたときに叱りつけて負の強化を行なったので、子供をもっと叱りつけがちになる。
行動主義者は、この基本概念に基づき動物のすべてを説明しようと思った。動物とは、基本的に刺激を与えれば反応する機械と考えた。この考えに支配された力を想像することはおそらく難しい。それは宗教に近かった。私や多くの人たちにとって、B.F.スキナーは神様だった。心理学の神様だった。
彼自体は神とは程遠いと分かった。私は、B.F.スキナーに一度会った。私自身のスクイーズ・マシンに関して彼に手紙を書いた。彼を印象付けたのは私の動機だ、という手紙を返してきた。考えれば滑稽という代物だ。私の行動ではなく内面の動機について語る行動主義の神だった。彼は時代に先駆けていたと私は推測する。今日では、動機は自閉症の研究において関心の的であるが。
私は手紙を受け取った後に、彼の事務所に電話して面会できるか尋ねた。行なった研究のいくつかを話したかった。
彼の事務所からは、ハーバードを訪れるように電話で言ってきた。まるでバチカンのローマ法王に会いに行くようなものだった。スキナー博士は、心理学全般でもっとも有名な教授だった。彼はタイム・マガジンのカバーにも載った。彼に会うために歩いているときに、私は極度に緊張していた。ウィリアム・ジェームズ・ホールへ歩いて行き、その建物を見上げ、「こここそ心理学の殿堂だ」と感じたのを思い出す。
しかし、彼の事務所へ入ると、とてもがっかりした。彼は普通の人に見えた。植物が事務所の周囲に絡みつき部屋の周りを覆っていたことを思い出す。私たちは腰をかけて話した。彼はまったく個人的な質問から切り出した。それが何であったかは思い出せない。なぜなら、私は会話した特定の言葉や文をほとんど覚えないからだ。自閉症の人はビジュアルなイメージで考えるからだ。言葉が頭を通過することはほとんどない。ビジュアルなイメージの流れがあるだけだ。そのため、質問の言葉の詳細を覚えていない。彼が質問した行為だけしか覚えていない。
彼は私の足を触ろうとした。私はショックを受けた。私はセクシーな服装でなく地味な服装をしていた。けっして予期していなかった。
「見てもいいですけど、触らないでください」
こう言ったことだけを覚えている。
それでも、私たちは動物と行動について話し始めた。最後に彼に言った。
「スキナー博士、私たちが脳の働き方を学ぶことができたら、、、」
次は、私が具体的に覚えているもうひとつの会話だ。
「我々は、脳について学ぶ必要はない。オペラント条件づけがあるだけだ」
と彼は言った。
これを心に留めて学校へ戻って、最後につぶやいた。
「あれは、私は信じないわ」
私はそれを信じない。というのも、私の事情には合わないと思える問題だったから。私は大学で動物比較行動学のクラスも取った。比較行動学者は自然環境の中で動物の研究をする。トーマス・エヴァンスが講師で、動物の本能について講義した。本能とは、動物が生まれつき持っている固有の行動パターンだ。本能は環境とは何ら関係がなく、動物が本来持っているものだ。
スキナー博士は、老年になって考えを変えた。私の友人のジョン・レーティはハーバードの精神科医で、「Shadow Syndromes」(本書の共著者のキャサリン・ジョンソンが共著した)と「A User’s Guide to the Brain」を書いた。ジョンはスキナー博士が死ぬ少し前に昼食を共にしたときの話をした。話の中でジョンは博士に尋ねた。
「ブラックボックスの中に入って行く時期だと思いませんか」
スキナー博士は答えた。
「脳梗塞を患ってからは、私もそう思っている」
脳はすごい力がある。人は脳がうまく働かなくなってから初めてその力を知る。スキナー博士は苦しみの中で学ばねばならなかった。脳梗塞により、すべては環境に支配されているのではないと知った。しかし、私が研究を始めた一九七〇年代は、行動主義が原則だった。
だが、私は行動主義の敵であるとは思われたくない。実際に敵ではない。動物の脳の中を見ないと言う点では、行動主義者も比較行動学者も異ならなかった。行動主義者は実験室の中で動物を観察した。一方、比較行動学者は自然環境の中で動物を観察した。しかし、両者とも外部から動物を見ていた。
行動主義者は過ちを犯して、脳は聖域だと宣言した。しかし、環境に焦点を当てたことは、大きな前進の一歩であり今日へ繋がっている。行動主義が認められて初めて、環境がいかに重要かが理解された。多くの人は未だにそう思っていない。食肉加工業界で私は三十年働き、動物に対し思いやりのある操作システムを設計した。多くの牧場主は牛の環境について二度は考えない。牛の群れにある問題が起きたら、何が起きているかを見るために牛の環境を見ることは思いつかない。私が設置した装置を欲しがるが、環境が悪いと装置がうまく働かないということには気づかない。
ある加工場では、環境とは物理的環境を意味する。従業員が牛を扱う方法も意味する。牛の扱いが悪いと優秀で十分に整備された装置でもうまく働かない。
私が設計したセンター・トラック抑制システムは、北アメリカにある加工場の半数に設置されている。牛をうまく扱った場合にだけうまく働く。私の抑制システムは牛の胸と腹の下を動く搬送ベルトだ。牛は木挽き台をまたぐのと同じようにベルトを縦方向にまたぐ。
加工場が私の設計を採用した理由は、従来のV字型抑制システムよりも、私のシステムのほうを牛が自ら進んで歩くからだ。私のシステムはずっと効率的だ。従来のシステムの悪い点は、牛がその上を歩きたがらないことだけだ。V字型抑止システムはうまく働いて牛を傷つけない。しかし、足が締め付けられ足のためのスペースが十分にないところには牛は行きたいとは思わない。私の設計の革新点は技術上のことでなく、行動上のものだった。牛の行動を重視しために、よりよく動作する。
しかし、加工場はそれに気づいているとは思えない。牛の扱いが悪いと、私の装置はうまく働かないということにも当然気づいていない。装置に目を向けているだけだ。
行動主義者について私が好ましいと思っていることに、多くの場合彼らが天性の楽天家だということもある。学習の法則は単純で普遍的であり、あらゆる生物はその法則に従う、と行動主義者は当初は考えていた。すべての動物と人間は同様の方法で学習するから、観察する必要があるのは実験室のラットだけで良い、とB.F.スキナーが考えた理由だ。
スキナー博士の学習に対する考え方は連合主義者のものだった。正の連合(あるいは報酬)が行動を促し、負の連合(罰)が行動を抑制するという意味だ。真に複雑なことを教えたいなら、部分に分割し小さなステップをそれぞれ教え、それに沿って報酬を与えるだけでよい。これは課題分析(Task Analysis)と呼ばれた。動物の訓練だけでなく(動物のトレーナーはある程度までは行なっていたが)、障害を持った人間の子供や大人にとっても、大きな助けになった。朝起きて服を着て朝食を取るなど一日の中でしなければならない行動を部分に分割した、親のための行動学に関する本を私は見てきた。朝、服を着るような簡単なことにも十二、三以上のステップがあり、課題分析はおのおのをリストにしてひとつずつ教える。
課題分析は簡単でないように思える。なぜなら、普通の人は靴をはいたりシャツにボタンを掛けたりする行動の中にある小さな個別の動作に、なかなか気づかないからだ。普通の子供は簡単にやってのける。そのため、服を着たり靴を履いたりすることを子供に教えるのに、親に特別な技術は必要ない。シャツのボタン掛けの手がかりも、分からない人に教えようとすると、その方法が本当には分かってはいなかったと、すぐに気づく。ボタン掛けの中の小さな個別の動作を理解しているという意味では、本当には分かっていない。でも、ボタン掛けをやっている。
報酬を正しく与えれば、動物や人は何でも学習できるという行動主義者の信念は、I.ロバース博士を自閉症の子供に関する研究へ導いた。最も有名な研究の中で低年齢の自閉症の子供をグループ分けした。半分は十分な行動療法をし、残り半分はほとんど何もしなかった。行動療法とは、古典的オペラント条件づけのことで、学ばせたい行動を子供に何度も繰り返しやらせて、うまく行なえた場合には必ず報酬を与える。十分に治療を受けた半分の子供は普通の子供と「区別できない」までに達したという結果を発表した。
ロバース博士が本当に子供を治療できたのか何年も物議をかもしたが、私にとっては子供をそこまで導いたという事実は重要な点だった。行動主義のおかげで、自閉症の人は思った以上に多くのことができると、親や教師が考えるようになった。これは良い点だった。
行動主義者は動物と人間をそうとう緊密に観察したし、今日でも観察していることも、行動主義者の大きな貢献である。動物の行動の小さな変化をすばやく見つけ、環境の何らかの変化と結びつける。これは動物に対する私の重要な才能のひとつだ。
行動主義に問題はあるが、多くののものを提示したし、いまなお提示している。さらに、比較行動学者は見えにくい点も見つけた。たとえば、比較行動学者と行動主義者は、だれもが犯す最も大きな誤りは動物の擬人化だ、という点で合意している。比較行動学者と行動主義者では、擬人化を良くないとする理由は異なっていたが、理由はともあれ両者は合意していた。擬人化は人間を動物とみなすのと同程度に悪いのだ、とスキナー博士は考えていた。動物の擬人化は悪いことだった。
これに重点を置くのはかなり正当だ。なぜなら、多くの場合に飼い主は、ペットを四本足の人間であるかのように扱うからだ。プロのトレーナーは、ペットが人と同じように考えたり感じたりすると考えるな、といつも飼い主に忠告しているが、飼い主はとにかくそう考えてしまう。犬のプロ・トレーナーであるジョン・ロスでさえ、「Dog Talk」という本の中で、最初は犬を擬人化した、と書いている。ジェイソンという名前のアイリッシュセッターを飼ったが、そうとうの「ごみ散らし犬」だった。ロス氏が不在のときには、たえずごみを散らかしていた。ロス氏が家に戻ったときに、ジェイソンは床を散らかしていた場合には逃げるので、ジェイソンは自分が悪いことをしたと知っている、とロス氏は思った。ジェイソンは散らかしていない日には逃げない。そのため、ジェイソンがキッチンにごみを散らかすのを悪いことだと知っていて、悪いと感じるから逃げるのだ、とロス氏は考えた。
経験が豊富なトレーナーがロス氏に実験をさせて、それは誤りだ、とロス氏に分かった。ジェイソンが見ていないときに、ロス氏自身が床中にごみを散らかすように、とトレーナーは言った。そして、ジェイソンをキッチンへ連れて行き、どのようにするかを見るように言った。
ジェイソンがいつもと同じようにすることが分かった。ごみが床に散らかっていれば、ジェイソンは逃げ出す。悪いと感じたから逃げたのではなく、怯えたから逃げたのだ。ジェイソンには床のごみが問題だった。ロス氏が行動主義者に原理に従って、ジェイソンの「心理学」の代わりにジェイソンの「環境」を考えれば、誤りを犯さなかっただろう。
二匹の犬を飼っている私の友人が同様の経験をした。一匹は一才のシェパード、もう一匹は三か月のゴールデン・リトリバーだ。ある日、子犬のほうがリビングルームで糞をした。しばらくして、年上の犬が糞を見て不安になりよだれを流し始めた。年上の犬のほうが自分で糞をしてよだれを流したのなら、年上の犬自身が悪いことをしたと分かった、と飼い主はおそらく考えただろう。だが、子犬のほうが糞をしたのでリビングルームの床の糞は単に悪い知らせの類のもの、と飼い主は理解した。
これらの話は、動物の擬人化が正しくないとする従来からの例だ。しかし、これがすべてではない。私の学生時代には、みなが動物の擬人化に反対していたが、私は動物の側からの見方が重要だと信じていた。ロン・キルガー(比較行動学者である)という名前のニュージーランド出身のすばらしい動物心理学者がいたのを覚えている。彼は擬人化の問題に関してたくさんのことを書いた。初期の論文でペットのライオンを飛行機で輸送する話について述べた。輸送に際して人と同じようにライオンが枕を欲しがると考えた者がいて、枕を与えたら枕を食べて死んだ。要は擬人化するなということだ。擬人化は動物にとって危険だ。
だが、私はこの話を読んだとき、つぶやいた。
「そうよ。ライオンが枕を欲しがるはずはないのよ。ライオンは、葉っぱや草のような寝るための柔らかい物を欲しがるのよ」
私はライオンを人としてではなく、ライオンとして見ていた。少なくともそれが私がしようとしていたことだった。
しかし、この種の考えは、行動主義者にとっては正当ではなかったし比較行動学者が支持するものでもなかった。正直言って、両方とも環境論者だった。大きな違いは、動物を研究する際に動物がどの環境にいるかだけだった。
結局のところ、私はアリゾナ州立大学の大学院に行く前は、大学で比較行動学の十分な基礎教育を受けた。アリゾナ州立大学は行動主義の中心地だったので、私が研究したことは良いものだった。すべてが行動主義だった。だが、マウスやラットやサルに対して行なっていた残酷な実験のいくつかは好きではなかった。ショックを与えるためにプレキシグラスが陰嚢に突っ込まれた可哀想な小さなサルを思い出す。私はひどいと思った。
私は残酷な実験には加わらなかった。よほど重要なことを研究するのでなければ、動物を実験材料にするのは支持しない。癌の治療法を見つけるために動物を使うのは別だ。なぜなら、動物も癌の治療が必要だからだ。しかし、アリゾナ州立大学で行なっていたのはそれとは違う。私は、一年間、心理学教室で実験心理学を学習した。「こういうのは、やりたくないわ」と思った。
たとえ、実験が動物にとって楽しいものであっても、私には要点がつかめなかった。疑問は「この実験から何を学ぼうとしているのか」ということだった。スキナー博士は強化スケジュールに関してたくさん書いていた。動物が特定の行動に対して受け取る報酬の頻度と一貫性に関して書いた。考えられ得る強化スケジュールを実験していた。名前を挙げると、変動強化、間歇強化、遅延強化などを実験していた。
それは、全体では人工的だった。実験室で動物が何をするかであって、自然の中で何をするかではない。これらの実験をして何が学べるのか。動物が実験室の中でどのように行動するかを学ぶ。最終的に、実験室のラットの群れを中庭に出して、どういう行動をするかを観察する。突然、ラットはそれまでに見たことがないような複雑な行動を始める。
動物が見るように見る:ビジュアルな環境
私が興味を抱いたアリゾナ州立大学での唯一の研究は、動物が持つ錯視の研究だった。私はビジュアル思考者なので、錯視に興味があったことは確かだ。その当時は気づいていなかったが、ビジュアル思考者であることが動物に関わる職業の始まりだった。そのため他の学生や教授にできない重要な見方が私にはできた。なぜなら、動物もビジュアルな生き物だからだ。動物は見るものによってコントロールされている。
私は、自分はビジュアル思考者だと言うとき、建築用の図面やデザインを作成するのが得意だとか、頭の中で牛を抑制するシステムを設計できるとかを意味していない。私は実際にビジュアルなイメージで考える。考えている間には、頭の中に言葉は一切ない。ビジュアルなイメージがあるだけだ。
考えているテーマが何であろうが、そうなのだ。たとえば、私に対して「マクロ経済学」という言葉を使うと、天井から吊るすのに使うマクラメ編みの植木鉢入れのイメージが頭に浮かぶ。そのため、私には経済学や代数は理解できない。それらを実際に頭に描き出すことはできない。代数は落第した。しかし、他の場合には、ビジュアルなイメージによる思考は有利な点だ。一九九〇年代に、すべてのインターネット会社はだめになることが分かっていた。なぜなら、それについて考えたとき、私に唯一見えたのは二年間で廃れる貸事務所とコンピュータだった。私の頭に描ける現実のものは何もなかった。それらの会社には有価資産がなかった。株式仲買人が二つの株式市場の破綻が起きるのを私がどのようにして分かったかを尋ねた。
「モノポリーのおもちゃのお金が実際のお金の周りで急に動き出すときに、あなたは窮地に立つ」
と彼に言った。
私が検討している構造について考えれば、その構造に関する私の判断と決定のすべてはビジュアルなイメージで現れる。デザインがスムーズにうまくいっているイメージ、問題やこう着状態のイメージ、重大なデザインの誤りがある場合にはすべてのものが崩壊するイメージが私には見える。
考え抜いた後が、言葉が浮かぶ時点だ。そのときに「それは崩壊するので、うまくいかないでしょう」のように言うのだ。私の最終判断は言葉で現れるが、判断にいたる過程では言葉は出ない。判事や陪審員に当てはめて考えると、すべての審理はビジュアルなイメージで行い、最後の判決だけが言葉になる。
ひとりのときなら大声で判決を言うだろう。だが、それは望まれていないと分かっているので、周りに人がいるときには大声を出さない。大学では、思考を組み立てる手助けとなるので大声でたくさん話した。自閉症の人の多くは同様の理由から大声で話す。私は言葉でとても単純なコメントも随時行なう。「これをしようよ」あるいは「みんな、わかったよ」などと言う。いつでも単純な言葉だけだ。複雑なのはビジュアルなイメージだ。
私は話すときには、ビジュアルなイメージを頭の中のテープに記憶している句や文に置き換える。私のことをテープレコーダーと呼んだ子供たちは正しかった。意地悪だったが、正しかった。私はテープレコーダーだ。それは私が話す手段だ。私が今はテープレコーダーのように見えないのは、句や文をたくさん記憶していて、それらをいろいろ動かして新しい組み合わせを作ることができるからだ。人の面前で話すことは、すべてが大きな助けになった。私がいつも同じ話をすると不平を言われたときは、頭の中のスライドをいろいろ動かし始める。同時に句も動く。
私がビジュアル思考者なので他の人とは違う、と若いころには分かっていなかった。みんなも頭の中でビジュアルなイメージを見ていると思っていた。当然のことながら、実験室での作業が好きでなかった。自然の環境にいる動物について学びたいと思ったとき、私はビジュアルな環境に焦点を合わせた。意識的に決めたのでなく自然にそうなった。
行動主義者は言語で思考するので、ビジュアルな環境を本当には考えていなかった。動物の行動に対して報酬を与えたり罰を与えたりする環境について話すときには、必ず食物か電気ショックのことを言った。スキナー箱とは特別な箱で、普通はプレキシグラス箱と呼ばれる。行動主義者がラットの行動をテストし分析するのに使用した。その中にはレバーと報酬を得るときに着いたり消えたりする指示ランプ以外には何も入っていない。ほとんどのスキナー箱は動物にショックを与えなかったが、実験の中の罰を与える部分では、ショックを与えた。
だが、自然の中では電気ショックはないし、レバーをつついて食物を得ることもできない。ビジュアルな環境に高度に同調することにより食物を得ている。サルがレバーを押すときはいつも窓の外を見せるようにするだけでレバーの押し方を教えることができた有名な実験が行なわれてから、結局は行動主義者も動物にとっての視覚の重要性を理解し始めた。サルに食物報酬を与える必要はなく、眺めだけを与えればよい。動物は見る必要があり、見る欲求がある。
私が実験室で錯視に関して研究をしているとき、牛の畜舎をたびたび訪れた。多くの場合に牛がシュートに入りたがらないと気づいた。牛がスクイーズ・シュートへ行くための通路が狭かった。牛がしり込みして怖がっているのを見たとき、
「そうだ。牛の視点から見てみよう。シュートの中に入って牛が見ているものを見なければならない」
と私は自然に考えた。
牛の視点からシュート内の写真を撮った。牛の視覚はモノクロだと思っていたので、カメラにはモノクロのフィルムを入れた。(後になって、牛も色が見えることが分かった。しかし、人ほどの広い範囲の色は見えない)。牛が見ているものを見たかった。
影やぶら下がった鎖のような単純なものが牛をしり込みさせていることに気づいた。
畜舎の人には、私のやっていることがまったく滑稽に思えた。畜舎に入り牛が見ているものを私が見ようとしている理由を想像できなかった。私の方法はライオンに枕を与えた人のように擬人化だった、と今では思っている。私はビジュアル思考者なので、牛も同じだと思っていた。私がたまたま正しいやり方をしたことだけがライオンの場合と違っていた。
環境が動物の行動にどのように影響するかを理解しようとする場合には、動物が見ているものを見なければならない。あるとき、建物内の壁に黄色の金属のはしごがある加工場に行ったのを覚えている。牛は狭い通路を歩くときに、そのはしごのそばを通らなければならない。牛ははしごのそばで止まってしまう。牛は足に根を生やして動こうとしなかった。最後に加工場の人が問題を見つけた。はしごを灰色に塗ったら、問題は解決した。私は、フロアあるいは作業場の中で、管理者や従業員と一緒に働いている。多くの場合、作業場にいる人のほうが管理者よりも牛をよく理解していると気づいた。
フェンスではためいている黄色のレインコートを見ると、牛はパニックになる。しかし、ビジュアル思考者でなければ、黄色のレインコートがフェンスではためいているのに気づくのさえ難しい。私や牛が驚くようには、普通の人は驚かない。
私は、普通の人がビジュアルなイメージでなく言葉で考えていることが分かっていなかったので、牛を扱う多くの人が明らかな初歩的な誤りを犯す理由が長い間分からなかった。すべての人が誤りを犯すわけではない。食肉加工場で牛の扱いが上手な人にたくさん出会った。しかし、牛を扱うプロが目が見えないかのように扱うのを見たときには、いつも驚いた。なぜ、彼らには誤りが分からないのだろうか。
ある状況をとくに覚えている。牛を扱う施設の経営者が、施設を壊して建て直す前に、最後の手段として私を雇った。牛がスクイーズ・シュートに至る狭い通路内を歩かないと言って、私を呼んだ。
牛が注射を怖がっているのが問題ではなかった。ほとんどの牛はシュートの中で注射を打たれるかを知ってさえいない。そのうえ、ほとんどの牛は注射されても痛みをほとんど感じない。犬を新たに飼う人は驚くだろう。獣医が診察すると犬は怯えてすくむのが分かるが、注射針を刺すときはまばたきもしない。痛みを予期しない犬と予期する人間の違いだと言う獣医もいる。注射を打たれることを考えると具合が悪くなる。
牛を扱う施設での問題は、牛がその場所へ来る前には何も問題が無かったので、施設の人が何か悪い扱いをしたに違いなかった。だが、経営者はそのことを理解していなかった。ワクチン注射をしなければならないので、経営者はその状況を早く解決する必要があった。今ではめったにかからないポリオや百日咳のように、多くの病気に対するワクチン注射を受ける人間の子供と牛は違う。牛はウイルス性膀胱炎と肺炎のような呼吸器の病気にかかりやすい。その注射をしなければ、伝染性の病気が群れ中に広がり十パーセントが死ぬ。そのためワクチン注射をしなければならない。ワクチン注射をするためには、牛をスクイーズ・シュートに入れなければならない。牛がスクイーズ・シュートに入らないので、経営者はパニックになっていた。
状況がとても悪かったので、牛を扱う人たちはつつき棒を使っていた。つつき棒は牛に電気ショックを与える突起が二つ付いているファーバーガラスだ。つつき棒は牛を動かすが、牛をパニックに陥れ後ろ足で立たせてしまうので良くないものだ。つつき棒は牛にストレスを与える。牛はストレスを受けると免疫システムが低下し病気にかかりやすくなる。これは獣医にかかる費用が増加することを意味する。くわえて、ストレスを受けた牛は体重が減る。販売する肉が減ることを意味する。つつき棒で扱われる乳牛は乳の量が減る。
ストレスは人間の成長にとっても害がある。ほとんどの人は気がついていないが。人が知るべきことに成長阻害がある。ひどく虐待されたり無視されたりした子供は、ストレス性小人症になる。生物学的には正常で食物も十分に食べるのに成長しない。ストレス性小人症はかなり稀だ。しかし、ストレスを受けた子供は、ストレスを受けた動物と同じように、ストレスの少ない子供よりも成長が遅いという証拠がある。不安を抱えた大人はしばしば成長ホルモンのレベルが低いことが明らかになってきている。一九九七年の研究で、不安を抱えた少女は、不安を抱えていない少女よりも背が低い傾向があることが分かった。少年については研究されてはいないが。
私の推量では、結局は不安を抱えた少年も背が低いと分かるだろう。不安を抱えた雄の動物は、不安を抱えていない雄の動物よりも小さい。人間の男だけは違うという理由は見つからない。ドイツの孤児院の話は、ストレスが少年にとって悪影響することをおそらく物語っていると私は思う。戦後のドイツで起きた、ふたつの孤児院での有名な事例だ。ひとつは優しい女性院長が運営していた。もうひとつは子供を友達の前でからかう意地悪な婦人が運営していた。彼女は特にお気に入りの八人の子供だけに優しくした。
子供のだれもが十分な食物を取れず、想定されるよりも小さかった。その後、偶然にも自然発生的な実験になった。政府が優しい婦人と共に暮らす子供たちに余分の食料を配給した。優しい婦人が仕事を辞め孤児院を去り、意地悪な婦人がその後釜に雇われた。八人のペットたちが意地悪な婦人と共にその孤児院にやってきた。医師がすべての子供の成長を記録していた。その孤児院に最初からいた子供には余分の食料が与えられていたのに、意地悪な婦人にストレスを与えられたため、子供は別の孤児院から来た子供ほどには成長しなかった。子供は食料が多かったのに成長は少なかった。八人のお気に入りたちは、他の誰よりも成長した。両方の孤児院には少女も少年もいたので、少年の成長もストレスによって遅くなったと私は考える。
動物の場合ははっきりしている。ストレスは成長や時間にとって大きなマイナスだ。ストレスが利益を大きくマイナスにする。動物の感情に注意をしない牧場主でさえ、つつき棒を使うのを嫌う。ストレスを受けた動物は金銭上のロスになるからだ。
私がその施設に着いて、問題が分かるまでに十分しかかからなかった。
スクイーズ・シュートに行き着くには、まず、牛は畜舎のドアを通って群れ囲いと呼ばれる丸いエリアに入らなければならない。手順のこの部分は障害無しに進行した。牛は問題なく囲いの中に入った。
次に、牛は湾曲した縦長の狭い通路(シュートとも呼ばれる)に入ることになっていた。そこで牛が立ち止まった。牛はその狭い通路に入りたがらない。その通路は世界中の牧場で問題なく使われているのと同じものだった。そのため、どこに問題があるか、だれにも分からなかった。ほかの状況と異なる状況にだれも気づかなかった。
でも私には明らかだった。通路が暗すぎた。牛は明るい野外から暗い室内の通路へ入ると想定されていた。明るさのコントラストが強すぎた。牛は暗い空間に入るのを恐れた。
これは、若干驚くべきだ。牛や鹿や馬などのような草食動物は、普通は暗い場所を好む。暗がりに隠れて安全だと感じる。あるいは、少なくとも日光の下よりも安全だと感じる。しかし、問題は暗さではなかった。明るい日光の下から暗い室内へ入るときのコントラストだった。牛は明るいところから暗いところへ行くのを好まない。一時的に目が見えなくなるのを好まない。相対的に暗いところにいるときに明るい光を見ることも好まない。牛はまぶしい電球のほうへ進まないのを私は知っていた。うまく動かすには、通路の入り口に間接光を使わなくてはならない。
私はその状況を見たとたんに、それが問題だと分かった。牛が一日の別の時間に、天気の違いによって、どのように動くかを経営者に尋ねたときに、私の推定が正しいと確信した。彼は考えて、施設は夜にはうまく動いていることに気づいた。状況は曇りの日にはそれほどは悪くない。だめなのは、明るい天気のいい日だった。だが、だれもそのパターンに気づかなかった。
牛はそのように反応するため、多くの物事はうまく動くと私は考えている。牛は人と違って夜目が良く効く。昔は暗がりでよく見かけたものだ。虹彩が開くまでに一時的に数秒間目が見えなくなるのは、人にとっても当然だが、おそらく牛をパニックに陥れる。また、牛は人と違って、電気を使って家の中で生活しておらず、夜中に車で走り回ることもない。「明るさの突然の変化に対する目の調整機能」と呼ばれる脳内の部位を発達させていない。大事なことを言い忘れたが、牛は見える世界に対しとても敏感なので、明るさが突然大きく変化した場合に肉体的な苦痛を伴うことが発見されたとしても、私には驚きではない。人も明るい日光の下から暗い部屋へ移動するのが好きではない。だが、牛にとっては抗し難いに違いない。
牛は日光の下からシュートの中へ入り始めたときに、実際に目が見えなくなったと感じた。車で通りを下って地下道へ入ったときにいつも突然に目が見えなくなるならば、牛も人と同じ反応をするだろう。車で地下道を通る抜けるときに必ず目が見えなくなるなら、地下道を通らないだろう。
私がいつも言っていること。動物との間に問題があるときはいつでも、動物が見ているものを見ようとしなさい。動物が体験していることを体験しようとしなさい。臭い、手順の変化、体験したことが無いことの体験などの動物が動転することは多くある。これらすべてを考えるべきだ。感覚の世界のいかなるものでも動物を動転させ得る。しかし、犬や猫や馬や牛が見て苦にしているものを自問することを忘れてはならない。
その畜舎ですべきことは、建物内部の明るくすることだけだった。牛の視点でシュートについて考えることができさえすれば、五分もあれば自分たちで問題が解決できたはずだ。答えは畜舎の人たちの面前にあった。自分たちの面前に直にあると言っているのだ。最初から建物の前に大きな横滑りのドアを設置していたのに、経営者は閉めたままにしていた。
ドアを開けさえすればいいと経営者に言うと、建物を建てて以来ドアを一度も開けなかったことが分かった。畜舎の人たちは、結局のところドアを開けることができるかどうかさえ知らなかった。しかし、二人がドアに肩を押し付けて、力を入れてうめき声を出して、数分の後にドアを開けた。それで問題は解決した。牛はすんなりとシュートの中に入っていった。
人が見ているものと見ていないもの
その畜舎のコンサルテーションを行なったことで、私が特別に牛と魔術的なつながりを持っているという評判が立ち始めた。まもなく私はそういう状況にいつも困惑するようになった。私にとって答えがあまりにも明らかだからだ。なぜ、他の人たちにはそのようなことを見ることができないのか。
他の人たちが問題が何かを実際は見つけることができないのだ、と理解するのに十五年を要した。動物や自閉症の人たちのようにビジュアル指向でないので、見つけることができなかった。
健常者が自閉症の子供たちに「自分たちの小さな世界で生きなさい」と言っているのを聞くと、私は滑稽なことのように思える。しばらくの間、動物と一緒に働けば、自閉症の人は逆に健常者に同じことを言えると気づく。多くの健常者にはめったに立ち入れない大きな美しい世界が開けている。それは、犬が人には聞こえない領域の音を聞くようなものだ。自閉症の人と動物は、健常者にはできないビジュアルな世界の領域を見ている。
これは隠喩でもない。健常者は事実上、多くのものを見ない。イリノイ大学の視覚認知研究室長のダニエル・シモンズという心理学者が、有名な「Gorillas in Our Midst」という実験を行い、人の視覚認知がいかに悪いかを示した。バスケットボールの試合のビデオを見せ、一方のチームがパスを何回したかを数えるように指示した。次に、テープを流し始めて少し経ってから、被験者がパスの数を数えているときに、ゴリラの格好をした女性がスクリーン上で、歩いて、止まり、回って、カメラに顔を向け、こぶしで胸をたたく。
このビデオを見ていた被験者の五十パーセントはそのゴリラが見えなかった。
治験者が被験者に「ゴリラに気づきましたか」とじかに質問したときでさえ、被験者は「それは、何ですか」と言う。被験者はゴリラの格好をした女性を思い出せないのではない。忘れても、きっかけを与えれば、見たものを思い出すだろう。被験者はそもそもゴリラの格好をした女性を実際には見ていなかった。
実験では、別のビデオで彼らの理論を実証した。ひとりの俳優がまったく別の格好をしたまったくの別人に成り変る。被験者の七十パーセントがこれにも気づかない。実生活の中でも気づかない。ある事例だが、黄色のシャツを着たブロンドの髪の男が学生に用紙を手渡して記入するように言った。次に、ファイルするために本棚の後ろから記入済みの用紙を受け取った。彼が出て行ったときは、青色のシャツを着た黒髪の男だった。同一人物が変装したのではない。まったくの別人だった。学生の七十パーセントは、二人の別人とやり取りをしたことを覚えていなかった。
だが、最も驚くべき事例は、NASAが民間の飛行パイロットを使って行なったものだ。治験者はパイロットをフライトシミュレータに着席させ、一連の着陸手順を行なうように指示した。しかし、着陸のアプローチの部分で、治験者が滑走路に大型の民間機を駐機する画像を追加した。この画像は、実際では決して見ないものだ(少なくとも、そう願いたい)。パイロットの四分の一がその飛行機の上に正しく着陸した。パイロットはその飛行機が見えなかった。
その事例の写真を見た。面白いことは、パイロットでなければ、駐機した飛行機は明らかに見える。それを見逃さないし、自閉症である必要もない。その飛行機を見逃すのは民間のパイロットだけだ。農場を賭けてもいい。プロならば、プロが普通見るべきものを見るように要求される。フライトシミュレータで滑走路をふさぐ民間の大型機を見逃す機会は二十五パーセントある。
それは、人の認知システムが以前よく見たものを見るように構築されているからだ。バスケットボールの試合の中で以前よくゴリラを見たならば、ゴリラは見える。バスケットボールの試合の中でゴリラを見たことがなければ、ゴリラは見えない。非注意性盲目を呈している。
私には、ビジュアル思考者がこれらの実験でどのように見るかは分からない。しかし、私の推量では、ビジュアル思考者のほうが言語思考者よりもゴリラを見る頻度はかなり高いと思う。私は、草食動物がゴリラを見逃さないことをほぼ肯定する。きっと、肉食動物もゴリラを見逃さないだろうが。ところで、肉食動物とは、食べるために他の動物を捕まえたり殺したりする犬や猫のような動物のことだ。草食動物とは肉食動物に捕らえられる動物だ。同じではない他の動物の分類もある。肉を食べるが動物を殺さないゴミあさり動物(ハゲワシなど)の分類もある。人を含むすべての動物は少なくとも分類のひとつに入る。ほんの少しだがひとつ以上に分類される動物もいる。その多くは霊長類だ。人は草食動物というより肉食動物だ。しかし、人は両方の性質を持っている。歯の点から見ると、人は無防備だ。しかし、道具を使うようになったとたんに、人は肉食動物になった。
普通の人には何が牛を傷つけるのか見つけることはとても難しいので、結局、私は加工場の管理者が見つけられるように細部を視覚的に書いたチェックリストを作った。小刻みに動く金属片、水の反射、明るい地点、色のコントラスト、牛の顔に当たる空気の音や流れなどのようなものをチェックリストに載せた。私は「良くない」三つの詳細な点があれば、三つすべてを正さなければならない、と経営者に示す。そうすれば、牛は問題なくシュートに入り、電気つつき棒を使わなくてよくなる。
動物であろうと人間であろうと、ビジュアル思考者は細部が見える。すべてのものを見て、すべてのものに反応する。これが真実である理由は不明だが、実際の体験からそれを知っている。インテリアデザイナーが「私にはすべてが見える」と私に言った。インテリアデザイナーにとって最も悪いことは、よく分かっていない請負業者と仕事をすることだ。デザイナーは、請負業者がした仕事の小さな欠陥がすべて見える。しっくいが少し不ぞろいになっているような他のだれもが気づかないような小さなミスも、ビジュアルな人の目には飛び込んでくる。ビジュアルな人は、ビジュアルな環境に少しでも欠点があると、ひどいと感じる。動物も同じように感じる。
これは、普通の人が動物と関わった場合に、動物にとって最もつらい点であると、私は思う。なりたいと思っても、言語思考者はビジュアル思考者になれないし、逆にビジュアル思考者も言語思考者にはなれない。
この本が普通の人が言語思考を少し減らし、ビジュアル思考を少し増やす手助けになることを望む。私は、三十年間、動物学者として生きてきた。全人生を自閉症の人間として過ごしてきた。私が学んだことが、人が動物と(おそらく自閉症の人とも)再びやり直し、別の考え方を始める手助けになることを望む。
私が学んだことが、人がいわゆる見るための手助けとなることを望む。
【2章 動物は世界をいかに認知するか】
★ 著者は具体的なものを抽象化することと戦っている。
★ 抽象的思考者は、現実に基づかない抽象的な議論に縛られている。
★ 人は抽象的な思考をしているとラディカルになりやすい。
★ 動物や自閉症の人は物の観念ではなく物の実体を見る。
★ 高度にビジュアルな人は動物のように細部に反応する。
★ 多くの動物はパノラマビジョンだ(広範囲を見ることができる)。
★ 肉食動物は両眼視できないが,羊は両眼視できる。
★ 人は注意を払わない物は良く見えない。動物や自閉症の人は、見るのに注意を払わないので良く見える。
★ 自閉症の人は、普通の人よりも動物のほうに近い。
★ 動物にはEPS(超感覚的知覚)がある。
★ 普通の人は、感覚の生データでなく、スキーマ(概念)を見たり聞いたりしている。
【3章 動物の感情】
★ 自然状態で雄鶏が雌鶏を殺すならば、それは鶏でない。人間は、この生命についての基本的な事実を忘れがちだ。
★ 抗生物質による遺伝子の人為的淘汰は、耐性菌を生む。
★ 恐れを持つ動物ほど攻撃性が低い。恐れを多く持つ動物は戦いたいとは思わない。
★ 偶然による淘汰のほうが、動物にとって危険性が少ない。単一の物理的遺伝形質を目的にした飼育を行なう場合、動物の感情の変化を予測できない。
★ アルビノは、メラニン色素を持つ褐色の皮膚の動物より、神経性の問題を多く持つ。
★ 純血種の犬のほうが、混血種の犬よりも、感情や行動に問題があるという証拠が多くある。
★ 遺伝学的には、狼と犬はほとんど変わらない。
★ 動物と人間の感情の差は感情の混在だ。動物は同時に相反する感情を持てない。自閉症の人や子供も同じ。
★ SEEKING(欲求)に関連した主な神経伝達物質はドーパミンだ。ドーパミンは快楽物質である。
★ 性ホルモンにはバソプレシン(オス)、オキシトシン(メス)がある。これらは、社会性、顔の認識力、テリトリー、攻撃性などに関連している。
★ モルヒネ様のエンドルフィンという幸福ホルモンは痛みを減じる。エンドルフィンは社会的接触で上昇する。自閉症の人はエンドルフィンのレベルが高いので、接触の必要性を感じない。著者は社会的接触をスクイーズ・マシンに依存した。
★ 家畜・ペットなどの動物は社会性があり、仲間を必要とする。
★ ロコモーター・プレー(locomotor play)は、脳の発達には重要だ。今の子供は、ロコモーター・プレーを十分にやっているのか?
【4章 動物の攻撃性】
★ おとなしい犬が、小動物を楽しんで殺すのを見ると、飼い主はショックを受ける。
★ 犬が人を殺すのは、人が人を殺すのより断然少ない。
★ 犬の育て方が悪いと、犬は人間より上だと考え、家庭内でボスになってしまう。
★ すべての肉食動物は、獲物に対し本能に基づいた「最後のひと噛み」をする。
★ 肉食動物が持つ追跡欲求は、先天的でなく後天的だ。
★ 動物の攻撃には次のものがある。権利主張型攻撃、痛みに基づく攻撃、ストレスに誘発される攻撃、混合型攻撃、病気に起因する攻撃、雄同士の攻撃。
★ 15歳から24歳の人間の若者は暴力に走りやすい。
★ 力に基づいた縦社会は、争いを最小化する。馬の社会では、馬は社会のルールを後天的に身に付ける。
★ 集団心理は現実のものだ。犬の集団は人間にとって危険だ。
★ ひとたび飼い主より上に立った犬をその座から引きおろすのは容易でない。
【5章 痛みと苦しみ】
★ 食用の動物は苦しむべきでない。できる限り痛みを少なくしたい。できる限り即座に屠殺したい。
★ 草食動物はあまり痛みを見せないが、肉食動物は声などを上げ痛みを表わす。
★ 前頭葉を削除するロボトミー手術を受けた人は、痛みは気にするが苦しみは感じなくなる。動物の痛みや苦しみは、ロボトミー手術を受けた人と普通の人の中間に位置する。自閉症の人の痛みや苦しみは動物のものに近い。
★ 動物にとって痛みより恐れのほうが悪く作用する。著者の学校にいた馬のように、ひどい扱いを受けると、トラウマが残り消すことができない。
★ 自閉症の人や動物は、恐れを抑制する前頭葉のシステムが弱い。
★ 恐れを視覚で記憶した場合のほうが、言語で記憶した場合より、度合いが強い。自閉症の人は視覚による記憶なので、恐れの抑制が難しい。
★ 恐れはサバイバルにとって、重要な働きを持つ。恐れのあるマウスは負けるまでしか争わない。恐れの少ないマウスは死ぬまで争う。
★ 通常のマウスは、自分のテリトリーに入ってきた侵略者とは戦うが、他のマウスのテリトリーに入れると戦わない。
★ 人や動物は感覚で未来を予測する。
★ 恐れを感知する健全なシステムがあれば、動物や人は未来を予測しながら生き延びる。
★ 無意識に記憶したものは消えづらい。恐怖の記憶は永久に消えないように思える。
★ 好奇心と恐れは共にある。
★ 動物が恐れを一般化する方法は、感覚を使うのであって、概念を使うのではない。また、極度に詳細化された特定のものに恐れを持つ。
【6章 動物はいかに考えるか】
★ ハトがピカソとモネの絵を区別した実験がある。
★ アフリカ産のオウムのAlexは認識のレベルが4歳から6歳くらいの人間の子供のレベルに達している。色と形のような抽象物を分類できる。
★ 動物がビジュアルなイメージで思考する証拠を示した。人はREM睡眠の際にビジュアルなイメージで夢を見る。著者は目が覚めているときにビジュアルなイメージで思考している。
★ カラスは人の様子を観察して、その人がカラスを撃つために銃を取りに家に戻ったか否かを判断できる。銃を取りに家に戻っていない場合にはカラスは逃げない。
★ 自閉症の人は動物と多くの共通点を持っている。
★ プレーリードッグは名詞、動詞、形容詞を使うコミュニケーション体系を持っている。さらに、コロニーごとに方言もある。
★ 音楽のソナタの手法はもともと鳥が発見した。モーツアルトも鳥の鳴き声に影響されて作曲した。
【7章 動物の天性━甚大な才能】
★ 動物がどれだけ利口か?たとえば、鳥の渡りを見れば分かる。北極から南極まで30万キロもの渡りを行い、毎年戻ってくる。これは、本能でなく後天的に苦もなく身に付けたと考えられる。
★ 多くの動物は大容量の記憶領域と学習能力を持っている。
★ リスは埋めた大量の木の実の位置を正確に思い出せる。人間にはできない。
★ ヨーロッパ人は動植物を分類した。同様に人種も分類した。知性のレベルはヨーロッパ人が一番上、アジア人が次、一番下がアフリカ人。これは誤り。人種の問題でなくカルチャーの問題だ。おそらく動植物の分類に対しても同様の誤りを犯している。
★ 多くの動物は人間の持つ知性とは異なる知性を持っている。
★ 自閉症の人の利口さは動物のものと類似している。動物と共に長年生きてきて、動物は自閉症サヴァンと同様の才能があると結論付けた。
★ 普通の人の高度な知性は、高度な特殊能力を犠牲にして実現される。両者は両立できない。
★ 犬と人間の関係。人間は犬と共に進化した。人間は狼を変えた。狼は人間を変えた。ホモサピエンスがホモエレクトスから辛うじて進化した時点で狼と人間は共存していた。相補的なスキルを持つふたつの種が共同して進化した。
★ 狼はおそらく我々人間の脳の構造を変えた。犬が我々を人間にする。
★ すべての動物が我々を人間にする。
【行動および訓練のトラブルシューティングの手引き】
★ 動物の行動は、後天的な行動、生物学に基づく感情、本能にしばられた行動の複雑な混在だ。
★ 動物を訓練する人は、ほめること、なでること、食物報酬などのような肯定的感情やモチベーションに基づくべきで、恐怖を与えるような否定的なやり方はすべきでない。
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