頼山陽って、漢学者だよね?
それしか、知らない・・・
見延典子って、海を感じるトキ、早稲田大学? じゃなかたっけ?
今、こんなことやってんの? ふ~~~ん、大学時代だ、笑い
いろんな本を読んでいたんだな、笑い
海を・・・ これは、中沢だ・・・ この人、昔と変わった・・・
勘違いした・・・
もう頬づえはつかない (講談社文庫) [文庫]
見延 典子 (著)
出版社 / 著者からの内容紹介
<…「抱いて下さい」……私は高野にむかって、りんとした声でいいきった。「ここに退部届けがあります。来週から部はやめます。だから今日、抱いて下さい」……>(『海を感じる時』)あれは愛だったのだろうか、それとも―。不安定で多感な少女期の異性体験と母と娘の対立をみずみずしい完成で鮮やかにとらえた、中沢けい18歳のデビュー作。群像新人賞受賞作品。
内容(「BOOK」データベースより)
「…「抱いて下さい」…私は高野に向かって、りんとした声でいいきった。「ここに退部届けがあります。来週から部はやめます。だから今日、抱いて下さい」…」(「海を感じる時」)あれは愛だったのだろうか。それとも―。不安定で多感な少女期の異性体験と母と娘の対立をみずみずしい感性で鮮やかにとらえた、中沢けい十八歳のデビュー作。群像新人文学賞受賞作品。デビューから六年後に書かれた『銀の雫滴る岸』と巻末には群像新人賞受賞当時の選評・書評をあらたに併録。
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来歴・人物 [編集]
1981年に結婚して
広島県へ転居。以後同県で執筆活動を継続する傍ら、地元のテレビ番組やラジオ番組にも出演している。
著書 [編集]
- もう頬づえはつかない講談社、1979(のち文庫)
- いつのまにか晴れた空 講談社, 1981(のち文庫)
- 聖なる河 講談社, 1984
- 男ともだち 講談社, 1990
- 遺された指輪 祥伝社, 1992(「指輪」と改題、祥伝社ノン・ポシェット)
- 三人姉妹 講談社、1995
- 泣きたい夜 近代文芸社, 1997
- 愛の炎 上下 講談社, 1998
- 家なんか建てなきゃよかった 講談社, 2003(「家を建てるなら」と改題、文庫)
- 頼山陽にピアス 南々社, 2004
- 頼山陽 徳間書店、2007
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頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1780年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は久太郎(ひさたろう)、諱は襄(のぼる)、字は子成。山陽は号である。また三十六峯外史とも号した。大坂に生まれる。
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、
文人画家。主著に『
日本外史』があり、これは幕末の
尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。
大坂に生まれ、父の春水とともに広島に移る。その後、江戸で
尾藤二洲に学ぶ。
生涯 [編集]
父の
頼春水は幼い頃から詩文や書に秀で、
明和3年(
1766年)には
大坂へ遊学。
尾藤二洲や
古賀精里らとともに
朱子学の研究を進め、大坂江戸堀北(現・
大阪市西区江戸堀)に私塾「青山社」を開いてその居宅を「春水南軒」と名づけた。山陽が生まれたのはこの頃である。母もまた梅颸の雅号を持つ文人で84まで長命したが、ために息子・山陽に先立たれることとなる。
天明元年(
1781年)12月、春水が
広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居。山陽は城下の袋町(現・
広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また
歴史に深い興味を示した。春水が
江戸在勤となったため叔父の
頼杏坪に学び、18歳になった
寛政9年(
1797年)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(
1800年)9月、突如脱藩を企て上洛し
京都の放蕩仲間・福井新九郎(後の
典医・
福井晋)の家に潜伏する。しかし新九郎の家で発見されて広島へ連れ戻され、
廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。『
日本外史』の初稿が完成したのもこのときである。以後、20数年間努力して、47歳のときに『日本外史』を完成させる。
謹慎を解かれたのち、やはり父春水の友人であった儒学者の
菅茶山(1748 - 1827)より招聘を受け茶山が開いていた
廉塾の都講(塾頭)に就任。
1809年(
文化6年)、山陽30歳のことである。が、その境遇にも満足できない山陽は学者としての名声を満天下に轟かせたいとの思いから2年後に京都へ出奔した。
文化8年(
1811年)、32歳以後は没するまで洛中に居を構え開塾する。文化13年(
1816年)、父・春水が亡くなるとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年には九州旅行へ出向き、
広瀬淡窓らの知遇を得ている。山陽は京都に在って営々と著述を続け、
文政9年(
1826年)には彼の代表作となる『日本外史』が完成。ときに山陽47歳。翌年には
老中・
松平定信に献上された。
山陽はその後も文筆業にたずさわり『
日本政記』『
通議』等の完成を急いだが、
天保年間に入った51歳ごろから健康を害し
喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年9月23日(1832年10月16日)、ついに卒した。享年53。
山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという。また、遺稿とされる「南北朝正閏論」(『日本政記』所収)の自序にはこれを書く決意をしたのは9月12日の夜であったことを記している。京都
円山公園・長楽寺に葬られた。
創作活動について [編集]
司馬遷の『
史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。
『日本外史』は
武家の時代史であるが、史実に関しては先行諸史料との齟齬が多く、専門の学者達からは刊行当初から散々に批判された。豊後の儒者
帆足万里は、「頼とやらの書いた書物は、文体は俗っぽく、且つ和臭だらけで文法的に間違いが多いのは勿論、考証は杜撰で、議論も公平でなく、味噌甕のふたにしか使えない」と、その文体、文法、考証、議論すべてを批判している
[1]。実際には彼の文章は文法的にミスが多かったわけではなく、根幹ではしっかりとした正則古典中国語の文法を踏まえているが、語法、語彙レベルで日本語の影響が見られることが問題にされた。これは日本外史が日本のことを扱っているため、朝鮮や越南において地元のことを扱った古典中国語文書同様、その地独自の用語や概念はそのまま用いるほかなかったことが理由とされている
[2]。また、文体が俗っぽいという批判に対しては、保岡嶺南が「漢字をあまり知らない武人俗吏でも読めて内容をつかめる」と高く称えたように、その平明さを評価する声もある
[3]。文体、文法の問題については、キリスト教暦1875年に清国で日本外史が出版されたとき、本場の文人達からも「左伝や史記に習った風格のある優れた文章」であると賞賛されている
[4]。
歴史考証の杜撰さや議論の偏りについては、明白であり、史書というよりは歴史物語である。だが
幕末の
尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。また「五書・九議・二十三策」にあたる政治経済論の『新策』は、広島在住時の文化元年(
1804年)に完成したが、後これを改稿し『通議』とした。天皇中心の歴史書『日本政記』(全十六巻)は「三紀」に相当し、没後門人の
石川和介が、山陽の遺稿を校正して世に出した。
伊藤博文、
近藤勇の愛読書であったことでも知られる。頼山陽的な歴史観、国家観は幕末から維新、戦前の大日本帝国期に大きな影響を及ぼした。
なお山陽は
詩吟・
剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる
川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名。同作品は死後刊行された『山陽詩鈔』(全8巻)に収められている。ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『
日本楽府』(全1巻)がある。同書の第一は下記引用の詩に始まるが、易姓革命による秦、漢に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の皇統の一貫に基づく国体の精華を強調している。
日の出ずる処、日の没する処。
両頭の天子、皆天署扶桑鶏号いて、
朝已に盈つるも長安洛陽、天未だ曙けず。
贏は顚れ劉は蹶きて日没を趁い、
東海の一輪、旧に依りて出ず。
著作 [編集]
近年刊行の文献 [編集]
- 『頼山陽とその時代』 中村真一郎 中央公論社、1971年
中公文庫上中下巻、解説篠田一士、1976年。『昭和文学全集 22』(小学館)に一部収録。
- 『菅茶山と頼山陽』 富士川英郎 平凡社東洋文庫、1971年/ワイド版2006年
- 『頼山陽「日本楽府」を読む (全3巻)』 渡部昇一、PHP研究所-選書新版、2006年
- 『山紫水明 頼山陽の詩郷』 池田明子、渓水社、2010年-詩集解説
- 『頼山陽 (上下)』 見延典子、徳間書店、2007年-歴史小説
- 『すっぽらぽんのぽん』 見延典子、南々社、2000年-頼山陽の母・梅による「梅颸日記」の評伝
- 『頼山陽 雲か山か』 梶山季之 光文社文庫 1987年、旧版集英社、1974年-歴史小説
- 『頼山陽書画題跋評釈』 竹谷長二郎 明治書院 1983年-大著
- 安藤英男(1927~92年)による訳・伝記の著作集。
- 『明治維新の暁鐘 頼山陽 その人と志業』 安藤英男 東洋経済新報社 1972年
- 『考証・頼山陽』 安藤英男 名著刊行会 1982年
- 『頼山陽 人と思想』 安藤英男 白川書院 1975年
- 『頼山陽選集』全7巻 安藤英男訳 近藤出版社 1982年
下記3冊は旧版。頼山陽の自筆原稿図版あり。- 『頼山陽伝』
- 『頼山陽詩集』
- 『頼山陽文集』
- 『頼山陽 日本政記』
- 『頼山陽 通議』
- 『頼山陽 日本外史』
- 『頼山陽品行論』
- 『頼山陽詩集』 安藤英男訳 白川書院 1977年
- 『頼山陽 通義』安藤英男訳 白川書院 1976年
- 『頼山陽 日本政記』 安藤英男訳 白川書院 1976年
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