日本で仕事をするのは、本当に嫌になった、気味が悪い
よって、来年には、ヤドカリ洋介 => ヤドナシ洋介
餓鬼を相手にするのは、うんざり・・・
ドヤガイは借りているだけ - ヤドカリ
オーストラリアのれきしをしる
夕方になってキャンプへ戻って、夕日を見るためにがけを登った。半島のほうを見渡すと、広大な空の下に、陸地が水平線へとうずくまるように連なって、インド洋で消滅する。シャーク湾のほうを見渡すと、陸地が終わりになる地点や、空と海が交わる地点は、遠くでぼんやりとしていて、見分けるのが難しかった。風が絶え間なく吹いて、明るい色の赤土と、クリーム色の砂地を削っている。セージ・グリーンの茂みが、風にはむかうような格好で生えている。砂が舞い上がり、吹きだまりになって、浜の地形が変わる。赤土の煙が舞い上がって、地上に舞い戻る。ハヤブサや白い胸毛の海ワシが落とした糞が、青空に向かって突き出ている岩だらけのがけの上に白い斑点になって見える。ずんぐりしたアカシア類の植物は、二メーター以上には育たずに背が低い。アカシア類は、乾燥した厳しい気候に耐えるために、頑丈で不恰好で黒っぽくねじれている。
初めてシャーク湾を探索したとき、地の果てに来たように感じた。デナムの町には、建物が海岸に面した道の片側に沿って少しだけ並んでいる。水平線上にかすかに並ぶはるか彼方の列島が、エーデルランド半島とシャーク湾を区切っている。列島はシャーク湾とマダガスカル島の間にある唯一の陸地だ。どこもかしこも、不思議で見慣れない光で輝いていた。
シャーク湾はオーストラリア大陸の西端にあり、ヨーロッパの探検家が初めてオーストラリア大陸に足を踏み入れた地点だ。長い間、ヨーロッパの探検家にはオーストラリアは幻の大陸だった。オーストラリアはほんとうに存在するのだろうか、広大な南の大海の中にそんなものがあるはずはないなどと疑っていた。航海術や装備が未熟だったので、大陸を発見する試みはことごとく失敗した。大陸の近くまで航海して、大陸の音が聞こえる地点まで来た頑健な探険家もいた。しかし、彼らは不思議な大陸へ接近したことには気づかずに、ヨーロッパから数か月の厳しい航海をしてきて疲労こんぱいしただけで帰っていった。
オランダ人のダーク・ハートグが初めてオーストラリアへ上陸した。一六一六年、現在のインスクリプション岬にエンドラヒト号を接岸した。だが、島は不毛の地で、風が強かった。この島はシャーク湾の列島の中にあって、現在ではハートグ島と呼ばれている。ハートグは上陸地点にシロメ(錫と鉛などの合金)の飾り版を置いたが、その飾り版は安置されてはいなかった。一六九七年に別のオランダ人ド・フラミン船長がインスクリプション岬に立ち寄って、ハートグの飾り板を取り除き、自分の飾り板を据えつけた。だが、後年にハートグの飾り板に戻された。一七二二年、フランソワ・ド・サン・アルワーンがインスクリプション岬に上陸し、正式にフランス領土だと宣言した。フランスのコイン二枚と羊皮紙一枚をびんに入れて埋め、乗組員一名の遺骸も埋葬した。この不毛の地で所有権を巡って争いが起きたとは想像しがたい。
一六九九年、イギリス人ウイリアム・ダンピアーがシャーク湾と命名した。一八〇〇年代初期、ジェオグラフ号のボーダン船長と、ナチュラリスト号のハメラン船長のフランス人探検家がシャーク湾および海域の海図を初めて作った。一八二七年、イギリス人が西オーストラリアに初めて入植地を作った。入植地はシャーク湾からかなり南方のキング・ジョージ・サウンド(現在のアルバニー)と、スワン・リバー(現在のパース)だった。オーストラリア全土は最終的に大英帝国の支配下に入った。
もちろん、オーストラリアの歴史はヨーロッパ人から始まったのではなく、四千年以上も前にオーストラリア先住民のアボリジニから始まった。シャーク湾にはナンダ族とムルガナ族がいた。シャーク湾にある最も古いアボリジニの居住地跡には、貝塚(貝、カニの爪、哺乳類の骨、石器などが堆積している)があるが、今から五千年も前のものだ。今のところ、歴史家や考古学者がシャーク湾の綿密な調査をしていないので、古い居住地跡がまだ他にもあるかもしれない。
シャーク湾は乾燥地帯なので物の保存状態が良く、過去の断片が湾内に散らばっている。私は切り株のような茂みを何とはなしにぶらつくことがあった。一方をトゲのあるアカシアがさえぎると、別の方向に向かった。大きくて丸い金色のクモの巣が行く手を遮ったときには、別の道を探した。クモの巣を払うために棒切れを振り回すのだが、クモの巣が頑丈な場合には、それなりの力で払わなければならない(驚くほどの音を立てる)。右往左往して進むと、過去の残骸に出くわすことが多かった。
中国人やマレー人の真珠捕りが使った土製の古いパイプがよく見つかった。茂みの中に座っているときに、パイプはよく見つかる。茂みの中で息を殺して気持ちを静めて耳を傾けると、自分と異世界との波長が合って、アカシアの節くれだった幹のそばから発する白い輝きが目にとまる。それは間違いなくパイプだ。私にとっては不慣れな場所のど真ん中だが、かつては誰かが腰をかけて、タバコを吸って、くつろいでいたのだろう。彼らはカンムリヅルとスズドリの鳴き声を聞きながら、クモの巣だらでけで、トゲだらけの迷路に押し入って、赤土の上をうろつくアリをながめていたと思われる。
白く輝く緻密な石のかけらを見つけると、私には不思議な感覚が芽生えた。この種の石をこの地域で見かけたことがなく、何か不思議な石だなと感じた。かけらは種類が違う岩や砂に囲まれていて、私には鑑識眼がないので、何の石かを断定できなかった。石は人の手で切り出されて加工されたように見えた。かけらをポケットに突っ込んでキャンプへ持ち帰り、宝物のコレクションにくわえた。後に、シャーク湾にはヤリンガ・チャート(珪質堆積岩の一種)を採取する石切り場があることを知った。アボリジニは主に石器を作っていた。石切り場から採石し、加工した石のかけらが、シャーク湾のいたるところで見つかる。石切り場から数百キロ離れた場所で見つかることさえある。
風景をながめれば、アボリジニの姿を思い浮かべるのは簡単だ。アボリジニはこの地域の独特な豊かさを利用する知識と習慣を身につけて繁栄した。彼らは魚、貝、ジュゴン(マナティーに似ている海牛)、亀、トカゲ、鳥などを捕った。アボリジニからすれば、シャーク湾はかなり住みやすかったはずだが、ヨーロッパ人にとって、ここは厳しく容赦のない不毛の地にしか見えなかった。草花に満ちたなだらかな牧草地もないし、放牧する鹿もいない。日陰になる木もなければ、水が泡立って流れる小川もない。
「ホープレス・リーチ(希望のない到達点)」
や、
「ユースレス・インレット(使えない入江)」
などの地名に、
初期のヨーロッパの探検家の失望と失意が反映されている。
当時は、船乗りが壊血病や栄養不良になることは、すなわち死を意味した。シャーク湾には船に積み込む新鮮な水もなかったし、馴染み深い動植物もいなかったので、ヨーロッパ人は絶望した。だが、この地の厳しさのおかげで、アボリジニに特有の習慣が生まれて、独特の発想もわいた。
シャーク湾の水位は驚くほど低い。初期の探検家は海図を持っていなかったので、湾内に入ろうとしたときには、迷路のような水路や浅瀬を右往左往したに違いない。水深は平均で約十メーターだ。しかも、海域の約四分の一は水深が九十センチ未満しかなく、海岸線のほとんどは砂地で、海草におおわれていて、沖まで浅瀬だ。浅瀬が岸から百八十メーターくらいは続くので、ボートを浜へ入れようといろいろ案を練っても、海岸に到達するのはまず不可能だった。
長さ十二メーターのボートで、モンキー・マイアから約十五キロ離れた小さなフォーレ島に行って、グリーン・タートル・フラッツの外側の海岸から七百メーター離れた地点で錨を下ろした。引き潮になって、水深がひざ下になるのを待って、海岸まで歩いた。島を探索しているうちに、潮が急に満ちてきた。太陽が沈むころに、ボートへ戻ろうとすると、海面が胸の高さになっていて、鮫に囲まれた。
イルカにとっても、シャーク湾の浅瀬は問題だ。シックルフィンをボートで追っていると、水深が足りなくなり、それでも追い続け、砂と海草の迷宮に入った。ほとんどの迷宮は浅くて、潮位が低いときには渡れない。そこで、シックルフィンが方向を変えて深みへ行くのを待った。だが、シックルフィンはまっすぐ進んでいって、背中と背ビレが水上に出てじたばたして、水がほとんどない砂地へ打ち上げられてしまった。しかし、シックルフィンは方向も変えず、後戻りもせずに砂地を進んでいって、胸ビレと腹を使って、アザラシのように反対側へ飛び越えた。
シャーク湾は浅いので、イルカの観察に適している。水も澄んでいるので、イルカが海底へ潜っていても見える。水が澄んでいる日にボートをゆっくりと進めると、水面下で驚くべき世界が繰り広げられることもある。海底で休んでいる亀が上方を見ている。そこに一条の光が差し込んでくる。ボートで近寄ると、亀が砂地を蹴って、砂煙が舞い上がり、幾何学模様の貝殻が砂地に残る。さまざまな海草の群落が熱帯林の縮図のように見えて過ぎ去っていく。このような日には、ボートに近寄ってくるイルカの肌についている、すり傷や引っかき傷までもが見える。体の場所によって、傷には微妙な違いがあり、尾の切り傷や、胸ビレのねじれ傷や、目の周りの傷などが見える。イルカは砂と、海草と、灰色に輝く他のイルカを背景にして、何気なしに浮かんでいる。
十九世紀半ば、シャーク湾は鳥糞石産業(海鳥の糞からできる肥料)が栄えた。ウ科の水鳥やその他の海鳥が大きな繁殖地を作っていた。まもなくして、真珠産業がそれに続き、真珠の一大産地となった。中国人とマレー人の真珠捕りが湾の周囲に住み着いた結果、現在のシャーク湾の住民には、アボリジニ、ヨーロッパ人、マレー人、中国人の血が混じっている。モンキー・マイアの名前の由来について、一説がある。
ヨーロッパ人は中国人を
「モンキー」
と呼び、
アボリジニの言葉でマイアは
「家」
を意味する。
モンキー・マイアとは
「中国人の家」
を意味するという説だ。
一日でアコヤガイの大きな山を積み上げて、貝殻をひとつずつ開けて真珠を取り出す。アコヤガイは大樽の中で放りっぱなしにされていて、残った真珠を取るために、さらにアコヤガイをゆでる。当時は腐ったアコヤガイ(ポギー)をゆでる匂いが湾全体に充満していたに違いない。
ある日、茂み「ブラ」をして小屋を見つけた。かつて、中国人かマレー人の真珠捕りが残した小屋だろう。茂みの中を歩き回っていて、茂みが密集し通れなくなり、砂地に腹ばいになって茂みの下をくぐり抜けた。茂みの真ん中辺りの少し開けた場所にたどり着くと、古めかしいさびついた金属製の鉢と皿がころがっていた。かまどの跡もあった。何気なく辺りを見回すと、砂の上に土製の白いパイプと飾りボタンがあった。それにはアジア風のデザインがあしらってあった。
最終的には、漁業がシャーク湾の主要産業になった。タイとハタ(熱帯から温帯の浅い海に広く分布する魚)が釣れて、ボラとタラが網にかかった。魚の質は上等だった。エビとホタテを海底から採取していたが、海草の林が破壊されるため、後に、採取漁は禁止された。
十九世紀の初期には、シャーク湾に
「隔離病棟」
が建てられた。
男用と女用がそれぞれバーニア島とドーレ島にあった。性病かハンセン病を患った北西オーストラリアのアボリジニが、舟で病棟に送り込まれた。アボリジニは家族や親戚から隔離されて、衰弱するだけで病棟から逃げ出る望みはなかった。
おおまかにしぜんをしる
シャーク湾は特異な地域だ。北部の砂漠性気候に生息する生き物の南限であると同時に、南部の温帯性気候に生息する生き物の北限でもあり、ふたつの生態系が混在する。西岸を車で北上すると、パースのすぐ北は、起伏が緩やかな緑の農場地帯だ。赤と黒の羽毛を持つインコの群れが、整然としたブドウ畑で、鳴き声をあげて飛び回っている。牧草地では、牛、羊、カンガルー、エミュー(オーストラリア全域の草地や砂地に分布するダチョウ目の鳥)などが、点々と散らばって草を食んでいる。ながめが変っていって、背の高いユーカリの代わりに、背の低いバンクシア(ヤマモガシ科の木)、アカシア(マメ科の常緑樹)、ワトル(アカシアの類、オーストラリアの国花)、ツキイゲ(イネ科の単子葉植物)などが生えている。不毛な茂みが薄いピンクか明るい赤色の砂地にまばらに生えていて、四方の地平線へと広がっている。しかし、不毛な地なので、茂みが人に害されることはほとんどない。空がどんどん広がっていき、地上のながめが小さくなってくると、いろいろな考えが頭に浮かんでくる。
シャーク湾の美しさは、少し見ただけで分かるほど単純ではないので、注意深く見なければならない。たとえば、カンガルーが濃い紫の花の群落や、薄緑の葉がくすんだ色や、鮮明な色などをかもし出す中で、赤い砂を背景にしてたたずんでいるときに、美しさが見えてくる。ミサゴが上昇気流に乗って、海岸べりのがけ沿いを舞い上がるときに、美しさが見えてくる。荘厳で深遠な夕陽の光が輝いているときに、美しさが見えてくる。
この壮麗さは広く世界に知られていなかったが、一九九一年に国連が
「世界遺産」
に指定して、
湾内に、海洋公園と、国立公園と、環境保護指定地を定めた。世界でもっとも海草が密生している「ウーラメル・バンク」があり、十二種以上の海草が群生していて、稚魚、エビ、二、三種のウミヘビ、四種の亀、不可思議なタツノオトシゴなどの隠れ家になっている。ジュゴンも多数生息していて海草を食べる。
海草が密生していて、海水の循環が妨げられるので、塩分濃度が通常の二倍もある場所がある。たとえば、ハメリン・プールのような場所だ。そこはペロン半島と大陸の間にある浅くて広いひじ型をした海盆になっており、塩分濃度が高いために、生き物はほとんどいないが、その代わりにストロマトライトがたくさんある。ストロマトライトとはシアノバクテリア(以前は藍藻類と呼ばれていた)のコロニーのことで、成長すると堆積物を作り、マウンド(小さな山)になる。シアノバクテリアは先祖の堆積物の上層、つまり、マウンド上部の薄い層で生きている。異なる種類のシアノバクテリアが、異なる種類のストロマトライトを作り、それぞれが特有のマウンドになる━━「コロフォーム」「ジェラチナス」「ピンクッシオン」「タフティッド」「パスチュラー」「フィルム」「レティクレイト」「ブリスター・マッツ」などだ。
ストロマトライトがマウンドを作る速さは非常に遅く、年に約〇・三ミリだ。ハメリン・プールには大きなマウンドもある。マウンドができあがるまでには数千年かかると考えられている。これらの古いストロマトライトはさらに古い時代の生き物の子孫だ。化石によれば、初期の生命が地球上で生まれたころに、ストロマトライトは現れたようだ。長い間、古生物学者は化石ストロマトライトが作られた時期を誤っていた。年代を測定することで、その誤りが分かり、その時期は当初の約三百八十万年前から、先カンブリア紀(五億年以上前)に訂正された。先カンブリア紀のストロマトライト(最古のものは約三十五億年前)は岩石中で見つかった。生きているストロマトライトが発見されるまでは、ストロマトライトは死んだ化石だと考えられていた。現在では、ストロマトライトは地球上に数箇所しか生息していない。ハメリン・プールはその中でも大きな生息地だ。生物学者は、ストロマトライトが生き残っているのは、ハメリン・プールの塩分濃度が高いためだと考えている。ストロマトライトを食用にする動物が、ハメリン・プールでは生存できなく、天敵がいないために、ストロマトライトは生き延びた。現在では好奇心の強い観光客が注意せずに歩くために、数千年かけてできたストロマトライトが破壊されている。
シャーク湾のコキナ・シェルも特異な生き物だ。コキナは小型の美しい対称性二枚貝”Fragum erugatum(ザルガイの仲間)“で、塩分濃度が高い海に生存する。こういう場所では、天敵や競争相手が生息できない。ラリドン・バイトの縁沿いのシェル・ビーチは、幅が広くて真っ白な砂浜で、太陽で漂白されたコキナの貝殻が四・五メーターも堆積している。コキナの堆積物は圧縮されて固まっている場合が多い。シャーク湾では、木材が不足しているので、シャーク湾の住人は、コキナを切り出した作ったコキナ・レンガで、巧みに建物を作る。海岸べりにある「オールド・パーラー」レストランや、デナムの教会のように、コキナ・レンガの建物は美しいばかりか、暑さ寒さも防ぐ。デナムでは、道路もコキナ・シェルで舗装されている。
ストロマトライト、コキナ・シェル、海草の林、ジュゴン、亀、光線、イルカの他に、砂丘ガエルもいる。砂丘ガエルは水中で生活をしない唯一のカエルだ。砂丘ガエルは熱い砂の中に一日じゅう潜っている。砂丘ガエルが砂の中で卵を産んで、卵が孵たっときには、オタマジャクシにはならずにカエルになる。
ペロン半島の地形の特徴は、つけ根にあるボトルネックだ。島が陸地とかろうじてつながっているので、野心的な
「プロジェクト・エデン」
にとっては、理想的な地形だ。
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