沖縄戦の集団自決について、岩波書店発行の書物『沖縄ノート』(著者:大江健三郎 発行:1970年)、『太平洋戦争』(著者:
家永三郎 発行:1968年 文庫本として2002年に発行)及び『沖縄問題二十年』(著者:中野好夫、新崎盛暉 発行:1965年)で書いた内容が、当時の
座間味島での日本軍指揮官梅澤裕(うめざわゆたか)および
渡嘉敷島での指揮官赤松嘉次(あかまつよしつぐ)が住民に自決を強いたと記述し名誉を傷つけたとして、梅澤裕および赤松秀一(赤松の弟)が、名誉毀損による
損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載を求めて訴訟を起こした。
2005年8月大阪地方裁判所に提訴され、
2008年3月28日に第一審判決となった。判決では、集団自決に対する旧
日本軍の関与を認めた一方、それが隊長の命令であったかの判断は避けたが、「大江の記述には合理的な根拠があり、本件各書籍の発行時に大江健三郎等は(命令をしたことを)真実と信じる相当の理由があったと言える」として、名誉棄損の成立を否定し、原告の請求を棄却した
[1]。原告側は判決を不服として控訴したが、大阪高裁も2008年
10月31日に地裁判決を支持して控訴を棄却し、原告側はただちに
最高裁に上告した
[2]。
事実関係の争点 [編集]
原告側の主張 [編集]
- 梅澤裕、赤松嘉次は「集団自決」命令を発していない
- 各書で梅澤裕、赤松嘉次が「集団自決」命令を発したと書いた
- 被告大江は『沖縄ノート』で、原告らを「罪の巨塊」「屠殺者」「ペテン」などと名誉を毀損した
- 命令によるとの証言は援護法適用のためのものである
- 宮城晴美著書により、梅澤裕が命令を発していない事が明らかである
- 曽野綾子著書により、赤松嘉次が命令を発していない事が明らかである
- 梅澤裕は自決用の弾薬などを求める村民に対し、「帰れ、死んではいけない」と述べている[3]
被告側の主張 [編集]
- 梅澤裕、赤松嘉次は「集団自決」命令を発した、もしくは発したと信じる十分な理由がある
- 『沖縄ノート』では、梅澤、赤松の実名を一切記述しておらず、個人攻撃にはあたらない
- 『沖縄ノート』の記述にある「罪の巨塊」とは集団自決で死んだ多数の死体を指す言葉であり、これを名誉毀損とするのは原告側の誤読である
- 梅澤命令説、赤松命令説は、援護法適用以前から存在する。それを示す多数の資料や文献が存在する
- 宮城晴美の著書はむしろ、軍命があったことを裏付けている。宮城の母と梅澤とのやりとりの内容は、原告の主張とは大きく隔たっている
- 曽野綾子は、当時兵事主任で赤松隊の命令を伝達した富山に1969年に取材し、「軍命」の証言を得ているにも関わらず「会ったことはない」と虚偽の証言をしている。著書『ある神話の背景』は、一方的な見方で不都合な要素を切り捨てており、信用性があるとは言えない
大阪地裁の判断 [編集]
大阪地裁は2008年3月28日、「実態の調査には、既に時聞の壁が存することから司法的な限界がある」、「『鉄の暴風』『秘録沖縄戦史』『沖縄戦史』等には、その取材源等は明示されておらず、その作者が死亡しているような書籍については、その取材源等を確認することは困難であり、本訴の提起が遅延した原告らには時間の壁があり、原告らに不利益な側面を有しているといわざるを得ない」、「裁判所は事実の存否の解明それ自体が目的ではなく、損害賠償請求等の要件(真実と信じるに相当の理由があったかどうか等)へのあてはめを立証責任を踏まえて判断」と前置きした上で、「自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、(下記の判断ように)合理的資料若しくは根拠があり、被告が当時『真実と信じるに相当の理由はあった』」と判断し、原告の請求を棄却した。
渡嘉敷島の集団自決と赤松の関与 [編集]
「集団自決」体験者らの体験談は、いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性、信用性を有すると認められる。 赤松大尉は、防衛隊員であった
国民学校の大城徳安訓導が、数回部隊を離れたため、敵と通謀する恐れがあるとして
処刑している。日本軍の情報が漏洩することを恐れて自決命令を発したことがありえることは、容易に想像できる。 第三戦隊に属していた皆本義博証人が、部隊にとって大変貴重な武器であった
手榴弾を住民に交付したことについて「おそらく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言していることは、その手榴弾が集団自決に使用されている以上、赤松大尉が集団自決に関与していることは強く推認される。 沖縄県で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯し、駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決は発生しなかったことを考えると、集団自決は日本軍が深く関わったものと認めるのが相当である。 渡嘉敷島では赤松大尉を頂点とする上位下達の組織であったと認められ、渡嘉敷島での集団自決に赤松大尉が関与したことは十分に推認できる。
座間味島の集団自決と梅澤証言 [編集]
梅澤は本人
尋問で、「手榴弾を防衛隊員に配ったことも、住民にわたすことも許可していなかった」と証言する。一方で木崎
軍曹が手榴弾を交付したことについて、「木崎軍曹が住民の身の上を心配して行ったのではないか」と供述する。 慶良間諸島は
沖縄本島などと連絡が遮断されていたから、食料や武器の補給が困難な状況にあったと認められ、装備品の殺傷能力を検討すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められる。 そうした状況で、戦隊長である梅澤の了解なしに、木崎軍曹が(住民の)身の上を心配して手榴弾を交付したというのは不自然であり、貧しい装備しか持たない部隊の戦隊長である梅澤が、(武器を散逸させるという)部下の行動を全く知らなかったというのは不自然である。よって、梅澤作成の陳述書と証言は信用性に疑問が残る。
家永三郎『太平洋戦争』についての判断 [編集]
記載どおりの自決命令があったと認定するには躊躇を禁じえないが、梅澤と赤松が関与したものと推認できる。
大江健三郎『沖縄ノート』についての判断 [編集]
引用された文献や新聞報道で、梅澤や赤松についての記述をしていることが特定でき、「残忍な集団自決を命じた者」と記載している点は名誉毀損に当たる。だが、合理的な資料と根拠があり、真実と信じる十分な理由がある。記述の目的は、日本人のあり方を考え、読者にも反省を促すことにあったものと認められ、梅澤、赤松両名が当時
公務員の地位にあったことも加えると、公益を図る目的で執筆されたことは明らかであり、意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。
援護法の適用を目的とした「隊長命令捏造説」について [編集]
援護法の公布(1957年)される以前の1945年4月に作成された米軍の『慶良間列島作戦報告書』の中に、「集団自決は日本軍による指導」との記述がある。また、1950年発行の「鉄の暴風」にも軍命説が記述されている。よって、沖縄で援護法の適用が意識される以前から軍命説は存在していた。このため「援護法適用のために軍命説が捏造された」とする原告の主張には疑問が残る。
宮村親書についての判断 [編集]
宮村幸延(座間味島の元援護係)が作成したとされる(援護申請のために自決命令があったと虚偽を記載したことを認める)親書は、宮村自身が親書の作成を否定する書面を残しているほか、梅澤の同行者に酒を飲まされて泥酔し、梅澤から示された文書をまねて作成したとの証言が残っており、親書が宮村の真意を示しているか疑問。しかも宮村は集団自決の当時、島におらず、以上のことから親書の内容は信じがたい。
照屋証言(自称・元琉球政府援護課嘱託職員)についての判断 [編集]
照屋は、「旧援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め、渡嘉敷島で100人以上から話を聞いた」「遺族に援護法を適用するため、軍の命令ということにして、自分たちで書類を作った」などとするが、照屋が琉球政府に雇用されたのは、記録上、昭和30年代以降であり、しかも配属先は援護課とはまったく異なる。このため、昭和20年代後半から援護課に勤務し、現地で調査したとする経歴は疑問。当時、照屋が厚生省に提出したとする文書は存在しておらず、証言を裏付ける証拠はない。
宮城晴美『母の遺したもの』についての判断 [編集]
座間味島の住民が原告梅澤に集団自決を申し出て弾薬の提供を求めたのに対し、これを拒絶した内容となっており、原告梅澤が座間味島の住民の集団自決について消極的であったことは読み取れるが、これをもって直ちに「梅澤命令説」を否定したものとまでは言えない。むしろ、木崎軍曹が住民に「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載され、日本軍関係者が米軍の捕虜になるような場合には自決を促していたことを示す記載としての意味を有する。
沖縄タイムス編『鉄の暴風』についての判断 [編集]
事実関係で誤記や正確性を欠く部分があるが、とりわけ戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた
戦記としての資料的価値を有すると認められる。
曽野綾子『ある神話の背景』についての判断 [編集]
命令の伝達経路が明らかになっていないなど、命令を明確に認める証拠がないとしている点で赤松命令説を否定する見解の有力な根拠となり得る。しかし、「証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から命令を書いた紙が出てくるかもしれない」と曽野が語っているように説を覆すものとも、軍の関与を否定するものともいえない。また家永教科書検定第三次訴訟第一審の証言で、「ある神話の背景」の執筆に当たっては、富山兵事主任に取材をしなかったと証言しているが、それが事実であれば、取材対象に偏りがなかったか疑問も生じる。
第一審経過 [編集]
第二審経過 [編集]
基本的経緯 [編集]
- 座間味島
- 1944年9月 梅澤裕大尉を隊長とする海上挺進第一戦隊が座間味島に駐屯
- 1945年3月23日 米機動部隊来襲、座間味集落全焼
- 1945年3月25日 空襲と艦砲射撃、「忠魂慰霊碑前に集合、玉砕」の連絡で住民集合するが空襲が激しく防空壕に避難
- 1945年3月26日 米軍上陸、組合壕などで「集団自決」177人
- 1945年3月29日 米軍が座間味島を制圧
- 1945年4月10日 米軍の攻撃、梅澤隊長負傷し日本軍組織的行動とれず
- 1945年4月29日 住民の米軍への投降始まる
- 1945年5月下旬 梅澤隊長、包囲により米軍へ投降
- 渡嘉敷島
- 1944年9月 赤松嘉次大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊が渡嘉敷島に駐屯
- 1945年3月23日 米機動部隊来襲、役場・郵便局が全焼、住民は壕に避難
- 1945年3月25・26日 軍上層部の指導により、機密保持のため特攻艇マルレを破壊・自沈処分
- 1945年3月27日 米軍上陸、兵事主任より住民に谷間に集合の命令
- 1945年3月28・29日 軍による命令が出たとの情報が伝えられ「集団自決」329人
- 1945年3月31日 米軍撤退
- 1945年4月15日 米軍の捕虜になっていた少年2人、住民に下山を勧告し赤松隊により殺害
- 1945年5月 投降を呼びかけた住民6人が赤松隊により殺害
- 1945年8月17日 米軍の捕虜になっていた住民ら4人、投稿勧告に行き赤松隊により殺害
- 1945年8月17日 赤松嘉次隊長ら米軍に投降
背景 [編集]
1945年の沖縄戦での渡嘉敷、座間味両島などでの集団自決に対しては、戦後長く守備隊長の命令だったとされ、
大江健三郎の著書『沖縄ノート』(1970年、岩波書店)、家永三郎の『太平洋戦争』(1968年、岩波書店)で、軍命令だったと断じていた。だが、
曽野綾子が渡嘉敷島で取材した『ある神話の背景』などによれば、守備隊長は自決を制止していたとされ、近年には関係者及び本人が遺族年金受給のために「軍命令だった」と偽っていたと証言した。こうしたことなどにより「屠殺者」「ペテン」などと断じていた
大江健三郎と
岩波書店に対して、元隊長や遺族らが名誉棄損で訴訟を起こすこととなった
[4][5]。
こうした経緯を踏まえ、文部科学省は2007年3月、集団自決を強制とする記述について「軍が命令したかどうかは明らかといえない」と検定意見をつけた。その結果、「日本軍が配った手榴(しゆりゆう)弾で集団自害と殺しあいをさせ」との表記が「日本軍が配った手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」などと修正されるに至った
[4]。
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