後始末だ~~~
12/10/2009
日本の癌発見 => サイコパス・ファシスト
12/10/2009
国造り、家造り
世界は一家、人類みな兄弟 => 放送禁止思想
細菌兵器が逆感染している => 医師会(石井部隊)
悪魔のはらわた => GHQ+石井部隊 => 笹川 => 医師会
さすが~~~、石井部隊は厳しい~~~
だが、チェンジした~~~
不公正がムダの対象になった・・・ 闇取引はムダ、コネはムダ・・・
資本主義の掟がグローバルから押し寄せてくる・・・
実用にならぬものを苦労して日本で作るというバカが出ましたら、そんなバカなことをするなという勧告を私からよく致しますから、どうかその点、ご安心ください」と回答した。
この判断基準が、180度転換した。世界が生き残るために・・・
戦後になってまで、人体実験をやっている・・・すげえ~~~
戦後の状況 [編集]
石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学や京都大学を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校校長、国立予防衛生研究所所長、大阪大学微生物病研究所幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯岸信介らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い除々に弱まって来ている。
1947年、国立予防衛生研究所の幹部となった北岡正見(旧731部隊ウイルスリケッチア部長)らは府中刑務所の受刑者を使って発疹チフスの人体実験を行った。
1950年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した[8]。
1952年の名古屋市立乳児院事件では、乳児達に対して大腸菌を直接飲ませて激しい下痢を起こさせるという人体実験を行い乳児一人を殺している。乳児達は親のいない子が多く拒むことはできなかった。名古屋市立大学小児科の旧731部隊員小川二郎が中心となり石井四郎のネットワークの一つである東京1644部隊にいた小川透、東大伝染病研究所(現在の医科学研究所)、国立予防衛生研究所が協力して行った実験であった。
同1952年、日本学術会議総会において若手医学者達が731部隊について反省・総括が必要と主張。それに対し戦前からの医学界の重鎮である戸田正三(石井の京大での恩師で731部隊に積極的に協力してきた)は「細菌兵器は今日ほとんど実用になりません。実用にならぬものを苦労して日本で作るというバカが出ましたら、そんなバカなことをするなという勧告を私からよく致しますから、どうかその点、ご安心ください」と回答した。
1956年、新潟精神病院ツツガムシ病人体実験では、新潟大学医学部の桂重鴻教授らと旧731部隊の北岡正見、浅沼靖が協力して、149人の精神病患者にツツガムシの病原体(リケッチア)を投与し、8人が死亡、9人が腕から皮を剥がされる結果となった。これは米軍の生物兵器部隊406研究所の出資による米軍にツツガムシ病がでないための実験であった。
1967年、ミドリ十字は赤痢予防薬の人体実験を陸上自衛隊員を使って行い、1089人中577人に急性食中毒を起こさせた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の跡があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。
1993年、大阪大学微生物病研究所(旧731部隊渡辺栄らが作ったワクチンメーカー)はMMRワクチン(はしか、おたふく風邪、風疹の三種混合ワクチン)のおたふく風邪ワクチンの成分を厚生省に無断で変えて無菌性髄膜炎を多発させ2人の幼児を死亡させた。
近年、アメリカのダグウェイ実験場でも731部隊の人体実験のデータが発見され公開されている。その中には実験で標本にされた人体の顕微鏡写真も含まれていた。
---Wiki
731部隊(ななさんいちぶたい)とは大日本帝国陸軍の関東軍防疫給水部本部の事。関東軍管轄区域内の防疫・給水業務を行うことを目的に設置された。同時に細菌戦の研究の一環として人体実験を行っていたという証言[1][2][3]がある。また証言についても反対意見もある。
「731部隊」とは、1941年に付けられた通称号の略である。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれる。
部隊の活動実態に関しては確実な証拠の有無(確定的な証拠が証言しかないため)について反対もあり、議論が続いている。
12/10/2009
医師会 => 癌の素 観世
癌が医師会を牛耳っている => 癌が増える
牢屋 = 病院
名は体を表す
「私は世界で一番金持ちのファシストである」
=> サイコパス
サイコパスは自らに問題があるとは考えず自分を改めようとはしない。
乙) ケムンパス印 グレーゾーン(灰色高官)
エログロ摘発、ケムンパス差し押さえマーク
政治は論、経済は指標、健康は気から!
忘れるな!
「ホワイトカラーが仕事をしていない」
論と指標を明確にしろ => 気がアップして、健康になる。
証拠)ホワイトカラーの生産性は
OECD加盟30各国中20位
一方、GDPは世界2位
ホワイトカラーは職務怠慢
ブルーカラーは公正な報酬を得ていない
青柳洋介
丙) カボチャ印 不公正不適正(憲法違反)
看板倒れ認定証 - カボチャ
警視総監へ
ワッペンを作って、全国一斉に認定マークを張ってください
「看板倒れワッペン」
青柳洋介
投稿者 AO 時刻: 12/10/2009 12:32:00 PM 0 コメント
ラベル: カボチャ, ケムンパス, 医療, 教育, 理念
投稿者 AO 時刻: 12/10/2009 12:58:00 PM 0 コメント
ラベル: カボチャ, ケムンパス, 医療, 教育, 理念
投稿者 AO 時刻: 12/10/2009 01:21:00 PM 0 コメント
ラベル: カボチャ, ケムンパス, 医療, 教育, 理念
医師会 => 癌の素 観世
癌が医師会を牛耳っている => 癌が増える
牢屋 = 病院
名は体を表す
牢屋 => 牛小屋
病院 => 病だれに、丙 => カボチャ
「私は世界で一番金持ちのファシストである」
=> サイコパス
サイコパスは自らに問題があるとは考えず自分を改めようとはしない。
乙) ケムンパス印 グレーゾーン(灰色高官)
エログロ摘発、ケムンパス差し押さえマーク
政治は論、経済は指標、健康は気から!
忘れるな!
「ホワイトカラーが仕事をしていない」
論と指標を明確にしろ => 気がアップして、健康になる。
証拠)ホワイトカラーの生産性は
OECD加盟30各国中20位
一方、GDPは世界2位
ホワイトカラーは職務怠慢
ブルーカラーは公正な報酬を得ていない
青柳洋介
丙) カボチャ印 不公正不適正(憲法違反)
看板倒れ認定証 - カボチャ
警視総監へ
ワッペンを作って、全国一斉に認定マークを張ってください
「看板倒れワッペン」
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日本の癌発見 => サイコパス・ファシスト
12/10/2009
国造り、家造り
1192、良い国造り、新生日本丸。
良い家造り、新日本ハウス・・・
よろしく、みなさん、笑い
世界は一家、人類みな兄弟 => 放送禁止思想
世界は多様である、しかし、人類は一生物種である - ジョーシキ
「私は世界で一番金持ちのファシストである」
=> サイコパス
サイコパスは自らに問題があるとは考えず自分を改めようとはしない。
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エログロ摘発、ケムンパス差し押さえマーク
政治は論、経済は指標、健康は気から!
忘れるな!
「ホワイトカラーが仕事をしていない」
論と指標を明確にしろ => 気がアップして、健康になる。
証拠)ホワイトカラーの生産性は
OECD加盟30各国中20位
一方、GDPは世界2位
ホワイトカラーは職務怠慢
ブルーカラーは公正な報酬を得ていない
青柳洋介
丙) カボチャ印 不公正不適正(憲法違反)
看板倒れ認定証 - カボチャ
警視総監へ
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青柳洋介
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国造り、家造り
1192、良い国造り、新生日本丸。
良い家造り、新日本ハウス・・・
よろしく、みなさん、笑い
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「私は世界で一番金持ちのファシストである」
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サイコパスは自らに問題があるとは考えず自分を改めようとはしない。
---Wiki
笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)は、日本の政治運動家、社会奉仕活動家。
国粋大衆党総裁、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会会長、福岡工業大学理事長を務めた。称号は箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。
人物 [編集]
一般にはファシスト、右翼、また政財界の黒幕としても知られ、「日本の首領(ドン)」とまで呼ばれた。1974年(昭和49年)、アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えている。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等により、その功罪と評価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。
経歴としては、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。すなわち有罪認定はされていない。しかし、A級戦犯容疑指定を受けたことが誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことをA級戦犯で有罪となったと信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者およびその家族との書簡は笹川の没後に公表された。
なお第二次世界大戦前の笹川は自分を「大衆右翼」と位置づけ[1]、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。上記のような一般のイメージに反して、太平洋戦争(大東亜戦争)をはじめとする戦争に日本が進んでいくことに対しては慎重論者であったとともに、東條内閣の一部の政策に真っ向から反対していたことも知られている。
巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与。モーターボート競争の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する財団法人日本船舶振興会を創設し、国内外で社会奉仕活動に邁進した。株式取引に長け[2]、個人としては莫大な財力を持っていると見られていたが大半は社会活動に投じていた。
来歴 [編集]
政治活動 [
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大阪府三島郡豊川村(現・箕面市)に造り酒屋の長男として生まれる。1914年(大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)高等科卒業、作家の川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。飛行機乗りを志し、陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊する。
1925年(大正14年)、豊川村の村会議員に当選して政治活動を始める。芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り[3]、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。
川島芳子
その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいたこともある。ムッソリーニの崇拝者であり、イタリアのファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイの川島芳子との交際があったと噂されている。本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。
1935年には党の他の幹部とともに、恐喝容疑で逮捕。最終的には無罪となるが、4年間の間、収監される。
1939年(昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の山本五十六の後援があった[4]。
1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢のため非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも親交があったとされる[5]。
1945年(昭和20年)には、連合国指令によりA級戦犯容疑者として12月1日に逮捕命令が出て、12月11日に巣鴨プリズンに入獄したが、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった。
アメリカの方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる逆コース)[6]、1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党をさらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼活動を再開した。
A級戦犯容疑と「巣鴨日記」 [
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巣鴨プリズン
笹川は戦争中、戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが、「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、東アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。また、「東アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。そのため連合国批判を繰り返し、1945年(昭和20年)12月11日、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監された[7]。
ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS、民間諜報局作成のファイルによる)としてであったことを知る[8]。
笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念、「日本が親米反共の道を選ぶべきこと」、「日本同胞を餓死から救わねばならぬこと」、「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、東條英機らに対してこの戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、かつ昭和天皇が戦犯として裁かれることを懸念していたため、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよと説いている。また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。
一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合い、戦後の政界・官界に繋がる人脈への構築へと繋がっていく。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA級戦犯たちを励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大な人望があったという[9]。
後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波書店も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面会したことがあった)。
戦犯者救済活動 [
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笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、酒も煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者の慰霊に奔走した。海外で収監されていた戦犯者や「三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊のために設立された宗教法人白蓮社、および家族会である白菊遺族会にも物心両面の協力を続けたとされる。
戦犯者とその家族を支援することは当時としては占領軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する人間はほとんどいなかった[10][1][11]。
笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は伊藤隆編集の元に『「戦犯者」を救え笹川良一と東京裁判2』 として刊行された。
競艇 [
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]
モーターボート競走に関心を持つきっかけとなったのは、巣鴨プリズンで手にした『ライフ』誌にボート写真が載っているのを見たことであったという[12]。
出所から2ヶ月も経たない1949年(昭和24年)2月頃から藤や矢次一夫[13]と計らってモーターボート競走法制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始した。競走法は参議院での否決後での衆議院の再可決[14]など紆余曲折を経て成立したが、競艇の主宰をめぐって笹川・矢次[15]らの一派と大野伴睦・福島世根らの一派で分裂状態になるが、最終的に笹川らが競艇主宰の主導権を握ることになった。なお笹川の競艇創設の栄誉をたたえ、SG競走の「笹川賞競走」が毎年5月に行われている。
1952年(昭和27年)に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年(昭和30年)には同連合会の会長に就任した。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として1962年(昭和37年)に日本船舶振興会(現在の通称は日本財団)を創設し、会長などを務めた[16]。その際、日本船舶振興会のテレビコマーシャルに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。
なお高見山、山本直純、子供たちと共に「一日一善」等のシーンは1975年(昭和50年)から会長を務めた財団法人日本防火協会のCMにも使われた。CM全体のイメージが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ1976年(昭和51年)から1994年(平成6年)まで。ちなみに1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる”曜日変わりバージョン”も存在した。この時期に小中学生であった年代の者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「『戸締まり用心、火の用心』のおじいさん」として認識されている。
社会奉仕活動 [
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]
日本船舶振興会の活動により社会奉仕活動家として知られ、振興会の支援を通して、船舶・造船事業の振興、福祉・国際援助活動、各種武道・スポーツ団体への協力などさまざまな慈善事業を推し進めていった。
その中には日本各地に『B&G(Blue sea & Green land)海洋センター』名の体育館等のスポーツ施設を整備(設置者はブルーシー・アンド・グリーンランド財団)したり、アフリカにおける緑の革命プロジェクトにおいて日本からのODAを補完してアフリカ諸国の食糧増産に貢献したり[17]、全日本空手道連盟会長や少林寺拳法世界連合総裁を務めたり、一人一派で流派が乱立していた詩吟関係の団体を纏め上げて、日本吟剣詩舞振興会会長を務めたり[18]、宇宙科学博覧会協会の総裁を務めるなどの活動があった。
中でも特筆されるのは、WHOの天然痘根絶事業に対する巨額の資金協力(民間団体としては世界一)と、またハンセン病患者の救済である。ハンセン病のワクチン改良にはワクチン接種の第一号被験者となり、(財)笹川記念保健協力財団を作って会長として各国のハンセン病院を慰問して回った。
振興会の経理は透明で支援を受けるには厳正なチェックが必要であった。笹川は振興会の会長としての報酬は一切受け取らなかった一方で関連団体の多くに笹川一族が役員に就任していた[19]ことは「公私混同」との批判を招くことになった[20]。 また振興会の支援が届かない分野には私財を惜しみなく投じたが、その行為はかえって財団の金を好き放題に動かしているのではないかという疑惑を招く一因になった。また、一連の社会奉仕活動も莫大な財があってはじめて成し得るものばかりで、その財の出所はというと株式相場で得たものであった。
反共産主義の活動 [
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笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていた[21]が、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。
1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、現在のアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を韓国の李承晩や中華民国の蒋介石らと共に設立した。
統一協会とはある時期まで協力関係にあり、1963年(昭和38年)には、統一協会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一協会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪くなったためか、1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。
笹川は、反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り「政界の黒幕」として影響力を及ぼしたと見られているが、戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とすることは無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達できたことに加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた[1]。
中華民国と中華人民共和国との関係 [
編集
]
笹川自身、反共の立場を取り且つA級戦犯容疑者の一人であったにも関わらず、1972年(昭和47年)9月の日中国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国への支援に回すなどしている。このため中華人民共和国での待遇はVIP待遇だった。
1987年(昭和62年)から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェクトで来日した中華人民共和国の医学生は、延べ二千人を超える。また、同国と対立する中華民国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した[22]。
タブーと親交 [
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]
生前、「新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表することは、ある種のタブーとなっていた」と言われてきたが、実際は笹川ほどマスメディアから誹謗、中傷された人物は珍しい。これは1960年代から1990年代の各週刊誌を調べれば一目瞭然のことである。
しかし、笹川は有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、との例えどおり、実力のうえにおいて、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモチのほうが強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのあることだった。戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」、「政界の黒幕」、「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、マイナス・イメージを持っていたため、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。
なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代になっている。また、山口組三代目田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。
国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはアメリカのジミー・カーター元大統領、ジョン・ロックフェラー[23]等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』の「解説」に詳しい。
遺産 [
編集
]
生前の「世の為、人の為になる事に全財産を使ってしまふ考へでゐる。[24]」という言葉どおり資産の多くを社会事業につぎ込んで、笹川は1995年(平成7年)7月18日、聖路加国際病院で急性心不全のため死去。享年97(満96歳没)。税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが、自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであった。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円。相続税約7億5千万円で相続人中長男と次男は相続放棄し、負債も同時に相続した三男の笹川陽平は、返済に苦労することになった[1]。
栄典 [編集]
勲一等修交勲章光化章(韓国、1976年)
大綬景星勲章(中華民国、1977年)
勲一等瑞宝章(1978年)
国連平和賞(1982年)
ヘレン・ケラー国際賞(1983年)
ライナス・ポーリング人道主義章(1983年)
マーチン・ルーサー・キング非暴力・人道賞(1986年)
マハトマ・ガンジー世界平和賞(1987年)[25]
勲一等旭日大綬章(1987年)
白象勲章ナイトグランドクロス章(タイ王国、1989年)
大勲位ベナルド・オ・ヒギンズ勲章(チリ、1989年)
大勲位ボルタ章(ガーナ、1989年)
芸術文化勲章(フランス、1993年)
など、その他多数受章
親類 [編集]
笹川勝正(長男)
笹川堯(次男 - 自由民主党元・衆議院議員)
笹川陽平(三男 - 日本船舶振興会(通称「日本財団」)会長・社団法人全国モーターボート競走会連合会名誉会長)
笹川博義(尭の三男)
笹川貴生(陽平の長男 - かつてNTTドコモに勤務し、松永真理が率いていたi-modeの開発チームに在籍していた[26]現在、岩井証券取締役)
孝養の像 [編集]
笹川良一・孝子像(笹川記念会館)
笹川記念会館、箕面市箕面及び全国の競艇場、競艇関係の施設に笹川良一の孝子像(こうしぞう)が存在する。何故か日本財団ビルにはない。これは、笹川が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って香川県仲多度郡琴平町・金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされる。
「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
「世界は一家、人類は皆兄弟」
との碑文が刻まれている。
なお、同銅像は笹川が生存中建立され、開示されたものである。
映画出演 [編集]
『フライング 飛翔』 監督・脚本・曽根中生、企画・横山やすし、 東映=東映クラシックフィルム 1988年 (連合会会長の役として)
参考図書・関連文献 [編集]
著書 [
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]
『対米戦争怖るゝに足らず -- 附・戦陣訓解説』 国防社(大阪) 1941年
桜洋一郎・編『笹川良一の見た巣鴨の表情 -- 戦犯獄中秘話』 文化人書房(大阪) 1949年
『この警鐘は鳴りやまず』 東京白川書院 1981年8月
『人類みな兄弟』 講談社、編集・共同刊行・講談社インターナショナル 1985年8月 ISBN 4-06-202025-4
笹川良一研究 [
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1995年に笹川が没したあと、生前は一切公開されていなかった巣鴨の獄中日記や、戦犯家族らとの書簡が研究者の手で編纂され刊行され始め、それまで知られることの無かった笹川の一面に光があたるようになった。まず1997年に伊藤隆と渡邊昭の校訂による『巣鴨日記』が刊行される。これに触発された佐藤誠三郎が1998年に『笹川良一研究 異次元からの使者』、1999年に『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』を相次いで上梓するが、翌年逝去。そのあと、伊藤隆は笹川の息子陽平の協力を得て笹川良一関係文書を整理し、東京裁判を中心とする3部作『続・巣鴨日記 笹川良一と東京裁判1』『「戦犯者」を救え 笹川良一と東京裁判2』『容疑・逮捕・訊問 笹川良一と東京裁判3』を刊行。これら一連の文献は、笹川良一関連文書をまとめたものであると同時に、笹川をとおして東京裁判とはどういうものだったのかを追う研究でもある。伊藤自身は、先の3冊に続くものと位置づけて、この6巻分をまとめた人名総索引を『容疑・逮捕・訊問 』の最後に置いている[27]。
伊藤隆・渡邊明・校訂『巣鴨日記』 中央公論社 1997年2月 ISBN 4-12-002650-7
佐藤誠三郎 『笹川良一研究 異次元からの使者』 中央公論社 1998年 ISBN 4120028178
佐藤誠三郎 『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』 中央公論新社 1999年 ISBN 4120028992
伊藤隆 編『続・巣鴨日記 笹川良一と東京裁判1』 中央公論新社 2007年12月 ISBN 978-4-12-003900-3
伊藤隆 編『「戦犯者」を救え 笹川良一と東京裁判2』 中央公論新社 2008年8月 ISBN 978-4-12-003968-3 「戦犯者」とその家族の笹川宛書簡288通を収録
伊藤隆 編『容疑・逮捕・訊問 笹川良一と東京裁判3』 中央公論新社 2008年12月 ISBN 978-4-12-003994-2
その他 [
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山岡荘八『破天荒 人間笹川良一』 有朋社 1978年
塩田道夫『天皇と東条英機の苦悩 -- A級戦犯の遺書と終戦秘録』 日本文芸社 1988年 ISBN 4537021144 (巣鴨プリズンにおける戦犯らの姿を笹川良一中心に描く)
黒瀬昇次郎『笹川良一伝 世のため人のために』 到知出版社 2001年 ISBN 4884746112
神山榮一『颯爽たる人生 笹川良一』 産経新聞ニュースサービス 2001年 ISBN 4594031404 (元側近による笹川の素顔)
鎌田慧『笹川良一の真相』 (『ルポ 権力者』講談社文庫 1993年 ISBN 978-4061855045 に所収)
落合信彦『二人の首領』 集英社文庫 1988年 ISBN 978-4087493726
別冊宝島編集部『「カルト」の正体』 宝島社文庫 1999年12月 ISBN 4796616853 (元統一教会の幹部、西川勝のインタビューに笹川とのエピソードがある。)
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投稿者 AO 時刻: 12/10/2009 11:54:00 AM 0 コメント
ラベル: AO, ART HARBOUR, CREATOR
自己中の日本人 => 公私混同
日本人は全般的に、サイコパスの傾向があるのでは?
日本国の社会自体がサイコパス化しているのかも?
憲法違反を犯して、世間体を守ろうとする。
国を守るといいながら、実際は、自身のお家を守っている。
やはり、国家という語は使用すべきでない。
国と家を分けるべき、区別すべき。
国と述べるときは、公の立場で、家と述べるときは、私の立場で・・・
これはキーポイントかもしれない。
国と、家を分離して、公私の区別をつける・・・
公私混同の日本人の頭を治すには、これが近道だと思う・・・
加えて、5W1Hを明確化することも重要・・・
皇国史観には、5W1Hが抜けている。
いにしえに回帰すれば、人口は300万程度になってしまうだろう・・・
このような先進国と思えない思想を主張することこそ、サイコパスの証拠である。
グローバルに対応するには、時制と、法を明確に認識しなければならない。
ある意味で、精神疾患と言えいる。もしかしたら、敗戦のショック、マッカーサーの上陸で、PTSDを罹患しているのかもしれない。
(出典)
http://profiler.hp.infoseek.co.jp/p.htm
サイコパス(精神病質者)は、「異常だが病気ではではない」。
現在、サイコパス(=ソシオパス)という言葉はDSM-Ⅳ(アメリカ精神医学会の分類マニュアル)等からも削除されて、「反社会性人格障害(APD)」という名称に変更・統一されている。「異常だが病気ではない」ということは、刑罰を課する際には、サイコパスであるかどうかによって量刑が影響を受けることはないということだ。実際に、バンディやゲーシー、大久保清はあきらかにサイコパスだが死刑になっている(アメリカでは連邦最高裁の判例で精神障害者は死刑にできない)。大阪で8人の児童を殺害した宅間守も間違いなく死刑になるだろう。
サイコパスの特徴は、極端に自己中心的で、自分の行動に責任を持たず、他人を操る術に長じ、慢性的な嘘つきで、しかも全く反省しない(定義は本ページの最下部参照)。
「羊達の沈黙」でレクター博士(A.ホプキンス)は「サイコパス」として描かれているが、サイコパス=連続殺人犯、ではない。サイコパスはおよそ人口の1%程度おり、人口2.5億人のアメリカであれば250万人はいることになる。たしかにサイコパスは反社会的な行動をとるために危険だとは言えるが、殺人を犯すのはそのごく一部に過ぎない。
しかし、精神分裂病などの精神障害者は健常者より犯罪率が低いが、サイコパスは重大犯罪を犯す確率が極めて高い。サイコパスは、 ある学者の指摘によれば「凶悪犯の50%を占め、しかも再犯率が通常人の3倍」だという(Robert D Hare:Without Conscience:1993)。
サイコパスは中年を過ぎると数が劇的に減少、または症状が軽減していくのが普通であり、これは精神科医の治療とは関係がないようだ。
サイコパスの発生原因は分かっていない。また、いったん青年期に入るとほぼ治癒が不可能であることが経験的に明らかになっている。学者の意見を総合すると、遺伝的要因と幼少期の環境が両輪になっているという結論になる。
サイコパスの幼少期の特徴としては、慢性的嘘つき、人をだます、窃盗癖、火遊び、不登校、破壊行為、集団の秩序を乱す、家出、弱い者いじめ、性的早熟、などが見られる。こうした行動はどんな子供にも当てはまるが、サイコパスの場合、程度が深刻で長期間続く。
「良心を全く感じない」というのは脳の前頭葉に何らかの障害があると考えるべきで、可能性が高いのはホルモンの異常だろう。先天的・後天的なホルモン異常に、幼少期の虐待やトラウマが重なり、さらに生育環境が劣悪である場合にサイコパスが生まれやすくなるといえる。
治療法は現在のところ存在しない。電気ショック、薬物投与、グループセラピーなどほとんど全てに効果がないことが証明されている。そして、そもそも問題なのは、サイコパスが「病気」ではないことだ。サイコパスは、「異常だが病気ではない」のだ。患者本人な治療の必要を感じておらず、サイコパスのまま実業家・政治家・音楽家として成功している人間は数知れない。
つまり、「異常」とは何かという哲学的・形而上学的な問題にまで話が及んでしまう。攻撃的で厚顔無恥な人格はウォール街や学界ではむしろ好ましい性質だとも言える。できることといえば、危険な暴力犯罪を犯したサイコパスに薬物、例えば合成ステロイドの一種MPA(メドキシプロゲステロン・アセテート)を飲ませて暴力的衝動を抑える事くらいだろう。MPAを飲むと、勃起・オーガズム・攻撃衝動が抑制される。
心理療法の基本的立場は、心理的に痛みを伴う問題(例:不安・憂鬱・自己イメージの低さ・内気・強迫観念・強迫行動など)について、患者が助けを必要とし、かつ助けを希望していることが大前提になっている。患者は問題を認識し、解決策を考えなければならないが、サイコパスは自らに問題があるとは考えず自分を改めようとはしない。
サイコパスは、精神分裂病の患者などと違って、自らの行動を理性的に把握している点で心神喪失による刑の減免は原則として認めるべきではないし、実際にそのように法は運用されている。妄想や幻覚を見ているわけでもなく、主観的な悩みを抱えているわけではない。自分の行動を理性的に把握しており、行動は選択の結果である。
歴史上初めてサイコパスについて書いたのは19世紀フランスの精神科医世紀フランスの精神科医フィリップ・ピネルだった。ピネルは「譫妄なき狂気」という言葉を使って、良心や自制心が全くない行動パターンを説明しようとした。ピネルはサイコパスが「病人」だと考えたが、単なる「悪魔」であるという考えも多く、 「病人か悪魔か」という論争は、現在にいたるまで解決の糸口すら見出せないまま、連綿と継いている。
サイコパスと全く同じ症状を指して「ソシオパス(社会病質者)」という言葉が使用されていた時期があるが、現在アメリカ精神医学会はこの言葉を使用しないことにしている。また、DSM-ⅢR(1987)からは、「反社会性人格障害(APD)」と定義されるようになった。
ソシオパスという言葉が使われていたのは、「精神病」の響きがないからで、サイコパスが厳密に言って病気でない以上、psycho=精神、path=病理、という言葉は本来適切ではなかった。(私見では「人格障害」という訳語も不適切で「性格障害」とすべき。誰がPersonalityを「人格」と訳したのかは知らないが、これでは患者の人間性に問題があるように響く)
サイコパスとソシオパス、どちらの用語を選ぶかは、精神異常の内容と原因を診断者がどう考えているかによる。この臨床的症候群が社会の影響や幼年期の経験に由来すると考える学者(社会学者・犯罪学者)は、ソシオパスという言葉を使う。一方、心理学・生物学的・遺伝学的な要因も原因の一つと考える学者は、サイコパスと呼ぶ。だから、誰が診断するかによって診断名が異なることがある。
精神科医・心理学者の診断は、基本的に患者との面接やテストに基づいており、患者が俳優なみの演技力をもって嘘をついた場合、優秀な学者と言えどもだまされる事がある。実際のところ、犯人が狂っているとか、錯乱していたとか、精神病であるかという科学的・客観的証拠は何もない。
投稿者 AO 時刻: 5:29 AM
ラベル: AO, 医療
投稿者 AO 時刻: 1:24 AM 0 コメント
ラベル: AO
投稿者 AO 時刻: 12/10/2009 11:34:00 AM 0 コメント
ラベル: AO, 医療
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