人物 [編集]
一般には
ファシスト、
右翼、また政財界の
黒幕としても知られ、「
日本の首領(ドン)」とまで呼ばれた。
1974年(
昭和49年)、
アメリカの
タイム誌の
インタビューでは「私は世界で一番金持ちの
ファシストである」と答えている。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な
慈善事業等により、その功罪と評価は徐々にながら
中和されつつある傾向がある。
経歴としては、
第二次世界大戦後
A級戦犯容疑者の指定を受け
巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。すなわち有罪認定はされていない。しかし、A級戦犯容疑指定を受けたことが誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことをA級戦犯で有罪となったと信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な
日記を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者およびその家族との書簡は笹川の没後に公表された。
なお第二次世界大戦前の笹川は自分を「大衆右翼」と位置づけ
[1]、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて
国粋大衆党を結成。上記のような一般のイメージに反して、
太平洋戦争(大東亜戦争)をはじめとする戦争に日本が進んでいくことに対しては慎重論者であったとともに、
東條内閣の一部の政策に真っ向から反対していたことも知られている。
来歴 [編集]
政治活動 [編集]
1935年には党の他の幹部とともに、恐喝容疑で
逮捕。最終的には無罪となるが、4年間の間、
収監される。
1939年(昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の
山本五十六の後援があった
[4]。
アメリカの方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は
反共のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる
逆コース)
[6]、
1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、
1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党をさらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼活動を再開した。
A級戦犯容疑と「巣鴨日記」 [編集]
笹川は戦争中、戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが、「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、東アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。また、「東アジア・太平洋地域に
植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に
日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。そのため連合国批判を繰り返し、1945年(昭和20年)12月11日、A級戦犯容疑者として
巣鴨プリズンに収監された
[7]。
ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS、民間諜報局作成のファイルによる)としてであったことを知る
[8]。
笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念、「日本が親米反共の道を選ぶべきこと」、「日本同胞を餓死から救わねばならぬこと」、「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、
東條英機らに対してこの戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、かつ
昭和天皇が戦犯として裁かれることを懸念していたため、開戦の責任は
天皇にはないとはっきり主張せよと説いている。また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。
一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合い、戦後の政界・官界に繋がる人脈への構築へと繋がっていく。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA級戦犯たちを励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大な人望があったという
[9]。
後年になるが、『
世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は
再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の
岩波書店も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに
加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。加藤は
BC級戦犯として服役していた当時、笹川と面会したことがあった)。
戦犯者救済活動 [編集]
笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、
酒も
煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者の慰霊に奔走した。
海外で収監されていた戦犯者や「
三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊のために設立された宗教法人
白蓮社、および家族会である
白菊遺族会にも物心両面の協力を続けたとされる。
戦犯者とその家族を支援することは当時としては占領軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する人間はほとんどいなかった
[10][1][11]。
笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は
伊藤隆編集の元に『「戦犯者」を救え
笹川良一と東京裁判2』 として刊行された。
競艇 [編集]
なお
高見山、
山本直純、子供たちと共に「一日一善」等のシーンは
1975年(昭和50年)から会長を務めた財団法人
日本防火協会のCMにも使われた。CM全体のイメージが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ
1976年(昭和51年)から
1994年(平成6年)まで。ちなみに
1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる”曜日変わりバージョン”も存在した。この時期に小中学生であった年代の者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「『戸締まり用心、火の用心』のおじいさん」として認識されている。
社会奉仕活動 [編集]
日本船舶振興会の活動により社会奉仕活動家として知られ、振興会の支援を通して、船舶・造船事業の振興、福祉・国際援助活動、各種武道・スポーツ団体への協力などさまざまな
慈善事業を推し進めていった。
中でも特筆されるのは、
WHOの
天然痘根絶事業に対する巨額の資金協力(民間団体としては世界一)と、また
ハンセン病患者の救済である。ハンセン病の
ワクチン改良にはワクチン接種の第一号被験者となり、(財)笹川記念保健協力財団を作って会長として各国のハンセン病院を慰問して回った。
振興会の経理は透明で支援を受けるには厳正なチェックが必要であった。笹川は振興会の会長としての報酬は一切受け取らなかった一方で関連団体の多くに笹川一族が役員に就任していた
[19]ことは「公私混同」との批判を招くことになった
[20]。 また振興会の支援が届かない分野には私財を惜しみなく投じたが、その行為はかえって
財団の金を好き放題に動かしているのではないかという疑惑を招く一因になった。また、一連の社会奉仕活動も莫大な財があってはじめて成し得るものばかりで、その財の出所はというと株式相場で得たものであった。
反共産主義の活動 [編集]
笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていた
[21]が、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役した
ソ連には強い批判を隠さなかった。
統一協会とはある時期まで協力関係にあり、
1963年(昭和38年)には、
統一協会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。
統一協会が
1968年(昭和43年)に結成した
反共の政治団体
国際勝共連合で、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、
文鮮明との関係が悪くなったためか、
1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。
笹川は、反共活動や
日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り「政界の
黒幕」として影響力を及ぼしたと見られているが、戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とすることは無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達できたことに加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた
[1]。
中華民国と中華人民共和国との関係 [編集]
タブーと親交 [編集]
生前、「新聞やテレビ、雑誌などの
マスメディアで『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表することは、ある種の
タブーとなっていた」と言われてきたが、実際は笹川ほどマスメディアから誹謗、中傷された人物は珍しい。これは
1960年代から
1990年代の各週刊誌を調べれば一目瞭然のことである。
しかし、笹川は
有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、との例えどおり、実力のうえにおいて、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモチのほうが強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのあることだった。戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」、「政界の黒幕」、「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、マイナス・イメージを持っていたため、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。
なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、
仏教系の新興宗教・
辯天宗の信徒総代になっている。また、
山口組三代目
田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、
暴力団の仲裁役を務めた。
国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中には
アメリカの
ジミー・カーター元
大統領、
ジョン・ロックフェラー[23]等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』の「解説」に詳しい。
遺産 [編集]
生前の「世の為、人の為になる事に全財産を使ってしまふ考へでゐる。
[24]」という言葉どおり資産の多くを社会事業につぎ込んで、笹川は1995年(平成7年)7月18日、
聖路加国際病院で
急性心不全のため死去。
享年97(満96歳没)。税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが、自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであった。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円。相続税約7億5千万円で相続人中長男と次男は相続放棄し、負債も同時に相続した三男の笹川陽平は、返済に苦労することになった
[1]。
栄典 [編集]
- 勲一等修交勲章光化章(韓国、1976年)
- 大綬景星勲章(中華民国、1977年)
- 勲一等瑞宝章(1978年)
- 国連平和賞(1982年)
- ヘレン・ケラー国際賞(1983年)
- ライナス・ポーリング人道主義章(1983年)
- マーチン・ルーサー・キング非暴力・人道賞(1986年)
- マハトマ・ガンジー世界平和賞(1987年)[25]
- 勲一等旭日大綬章(1987年)
- 白象勲章ナイトグランドクロス章(タイ王国、1989年)
- 大勲位ベナルド・オ・ヒギンズ勲章(チリ、1989年)
- 大勲位ボルタ章(ガーナ、1989年)
- 芸術文化勲章(フランス、1993年)
など、その他多数受章
親類 [編集]
孝養の像 [編集]
- 「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
- 「世界は一家、人類は皆兄弟」
との碑文が刻まれている。
なお、同銅像は笹川が生存中建立され、開示されたものである。
映画出演 [編集]
参考図書・関連文献 [編集]
著書 [編集]
- 『対米戦争怖るゝに足らず -- 附・戦陣訓解説』 国防社(大阪) 1941年
- 桜洋一郎・編『笹川良一の見た巣鴨の表情 -- 戦犯獄中秘話』 文化人書房(大阪) 1949年
- 『この警鐘は鳴りやまず』 東京白川書院 1981年8月
- 『人類みな兄弟』 講談社、編集・共同刊行・講談社インターナショナル 1985年8月 ISBN 4-06-202025-4
笹川良一研究 [編集]
1995年に笹川が没したあと、生前は一切公開されていなかった巣鴨の獄中日記や、戦犯家族らとの書簡が研究者の手で編纂され刊行され始め、それまで知られることの無かった笹川の一面に光があたるようになった。まず1997年に伊藤隆と渡邊昭の校訂による『巣鴨日記』が刊行される。これに触発された佐藤誠三郎が1998年に『笹川良一研究 異次元からの使者』、1999年に『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』を相次いで上梓するが、翌年逝去。そのあと、伊藤隆は笹川の息子陽平の協力を得て笹川良一関係文書を整理し、東京裁判を中心とする3部作『続・巣鴨日記
笹川良一と東京裁判1』『「戦犯者」を救え
笹川良一と東京裁判2』『容疑・逮捕・訊問
笹川良一と東京裁判3』を刊行。これら一連の文献は、笹川良一関連文書をまとめたものであると同時に、笹川をとおして東京裁判とはどういうものだったのかを追う研究でもある。伊藤自身は、先の3冊に続くものと位置づけて、この6巻分をまとめた人名総索引を『容疑・逮捕・訊問 』の最後に置いている
[27]。
その他 [編集]
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