金は天下の回り物。金が回らないから、不景気になる。
馬鹿とはさみは使いよう。金も使いよう。
成熟期の経済学は? 一言で・・・
お金を使ったほうが、金持ちになれる、笑い
では、成熟社会ではどうしたら不況を脱することができるのか。小野氏の回答は、結論的には次のようなことになる。まず、供給側に関して言えば、人びとの貨幣への執着を打破できるような創造的かつ想像的な物やサービスを提供して、需要をつくり出すしかない。また需要側に関しては、お金への執着を脱し、真に豊かな生活のために積極的に消費した方が不況を克服でき、その結果、誰もが経済的にも豊かになる(つまり積極的にお金を使った方が、誰もがお金持ちにもなれる)。
この人(解説者)の主張は、資本主義経済が遅かれ早かれ破綻する。だろ?
だから、政治は経済を語るのでなく、政治を語れ・・・
成熟社会の経済学――長期不況をどう克服するか [著]小野善康
[評者]大澤真幸(社会学者)
[掲載] 2013年03月22日
とするならば、政治が真になすべきことは、どのようにしたら船を放棄してもこの荒海の中で破滅に至らないか、それを構想することではないだろうか。そこにこそ、経済からは独立した、政治に固有の主題がある。
http://book.asahi.com/ebook/master/2013032100002.html?ref=comtop_fbox_d2
解説者は?
*本の余白に付け加えること
というわけで、私としては、『成熟社会の経済学』に対して、特に付け加えるべきことはない。私が、付け加えたいこと、コメントしたいこと、発展させたいことは、この本の本文にではなく、余白にある。つまり、この本にとっては前提になっているので、ていねいには論じられていないこと、そこに、私は、いささか論点を付加しておこう。
それは、どうして需要が増えないのか、という問題である。なぜ、人びとはあまり消費しなくなったのだろうか。その原因はどこにあるのか。
私の考えでは、「もう欲しい物のサービスもほとんど手に入っていて、十分に満ち足りているよ」ということが、需要が増えない原因ではない。少なくとも、それだけが原因というわけではない。もっと根深い原因があるのだ。
もし、「欲しい物はほとんどすでに持っている…」という心理的な満足感が、需要が増えない原因なのだとすれば、新規で便利な製品やサービスが提供されれば、新たな需要が喚起されるだろう。振り返ってみれば、パソコンだって、携帯電話だって、もともと欲しかったわけではない。それらが商品として出てきた後で、それらに対する欲望が創造されたのである。それらが普及する前には、皆それぞれ「欲しい物はおおむね手に入った」という充足感をもっていた。とすれば、現在の成熟社会でも、十分に斬新な商品を提供できれば、需要の増大を望めるはずだ……と、普通は考えられている。
ところが、これでもかこれでもかと新しい物やサービスが案出されても、なかなか需要は増えていかない。これが日本経済の現状である。その原因は、「その商品はまだまだ創造性が足りない」ということにあるわけではない、と私は考えている。
僕は?
「もう欲しい物のサービスもほとんど手に入っていて、十分に満ち足りているよ」
欲しい物があるとすれば、終の棲家。40平方メートル程度のマンションです。
だが、これを買うのは相当に困難である。
解説者は?
*日本人は「スクルージ」なのか
本書のあとがきで、小野氏は、現代の日本人は「お金の亡者」であるとし、ディケンズの『クリスマス・キャロル』の主人公、スクルージに見立てている。スクルージは小さな会社の社長だが、たいへんケチな男で、クリスマスの夜でも、使用人や甥(おい)にプレゼントを与えようともしないし、小遣いを渡そうともしない。それどころか、彼は暗い事務所の片隅で1人孤独に金勘定をしている。この姿が現代の日本人だ、と小野氏は言う。しかし、私の考えでは、このイメージはミスリーディングである。
そのことをわかってもらうために、マルクスを参照してみよう。マルクスは、資本家は合理的な守銭奴であると述べている。別の言い方をすれば、守銭奴は愚かな資本家である。守銭奴はただお金を貯(た)め込み、できるだけ使わないようにしているが、そのお金を投資した方がお金がもうかる。守銭奴をきっちり教育し、その点を理解させれば、彼は資本家に成長するだろう。
この守銭奴(スクルージ)と同じように、現代の日本人は愚かな消費者なのだろうか。ちゃんと啓蒙(けいもう)してやれば、その愚かな消費者は、貯金するよりも、積極的に消費した方が自分も含めて皆が豊かになることを理解し、明るく元気に買い物するようになるのだろうか。スクルージが精霊に説得されて改心したように、愚かな消費者は経済のからくりを理解すると、賢く積極的な消費者になるのだろうか。
私は、そうはならないだろうと想像している。つまり、現代の日本人が消費に対して消極的で、お金に執着しているように見えるのは、愚かだからではない。なぜ、消費に対してここまで日本人は消極的なのか。
僕は?
国民の預貯金、700兆円? 企業の内部留保、200兆円?
一部の金持ちが金を溜め込んでいるだけ・・・
解説者は?
資本主義経済の破綻を述べているが、これについては同意する。
*嵐の中の船と資本主義経済
ひとつの喩(たと)えによって、私の仮説を、証明抜きで提示しておこう。今、われわれは、激しい嵐の中をさまよう難破船に乗っている。このように想像してみよう。海は激しく荒れ、そこに落ちれば、たちどころに死んでしまうことは確実だ。救命ボートもとっくに流されてしまった。では、われらが乗っているこの船は、こんな嵐の中でも、ゆうゆうと安全に航行しているのかと言えば、そんなことはまったくない。船は、嵐に木の葉のように翻弄(ほんろう)され、すでにいくつもの穴が開いており、今にも大破しそうだ。われわれは皆、早晩、この船が海の藻屑(もくず)と化すだろう、と予感している。このとき、われわれはどうするだろうか。
それでも、われわれは、この難破船にしがみつくだろう。船が絶対に安全だ、と思っているからではない。この船ももうじき沈没するだろう、ということをわれわれは知っている。それでも、われわれは船に執着するだろう。それしか手がないのだ。船から離れたら、即座に死んでしまうからである。
船に対するわれわれの必死の執着が示していることは、その船への愛情でも信頼感でもない。むしろ逆である。破滅への強い予感や直感があるとき、人は、結局は同じ破滅へと至ることがほぼわかっている断片的な回避策に対して、すべての希望を託すようになるのだ。
この喩えの趣旨はおわかりだろう。難破船に対応しているのが「貨幣」、あるいは貨幣によって支えられている「資本主義経済」である。貨幣がそのエンジンとなっている船がかなり危ういことをわれわれは知っているが、その船から離れたら、もっとひどいことになることもわかっている。こういうとき、人は消極的になる。下手に動くと、船から落ちかねないからだ。
先に述べたように、消費にはそれなりの勇気や決断が要る。思い切って消費したつもりが、資本主義という船から荒海へと飛び込むことになりかねないとき、つまり失業や倒産につながる可能性があるという恐れがあるとき、人は消費をひかえ、貨幣に執着する。難破しかけた船にしがみついている人に、「海水浴の新しい楽しみ方」を提案しても、海に飛び込んだりしないのと同様である。
もうひとつ付け加えておこう。現在の長期不況に比して、80年代のバブル景気はよかったと言う人がいる。しかし小野氏は、バブル不況と長期不況は同じ根をもっている、と指摘している。お金への欲望が、お金そのものに向かうか(長期不況)、土地や株式に向かうか(バブル景気)の違いだけだ、と。
この指摘が、われわれにヒントを与える。多くの人が、こんな疑問をもっているはずだ。バブルはいずれ弾けるに決まっているのに、どうしてプロの投資家たちは夢中になって、土地や株を買い続けたのか、と。あるいは、低所得者は、いずれ返済できなくなることがほぼ確実なサブプライムローンをどうして組んだのか、と。これらを説明してくれるのが、まさに、この「難破船と荒海」の比喩なのだ。
投資家は、いずれバブルが弾けるとの予感はもっていたのだが、それはあまりにも大きな損失で破壊的な結果(荒海での溺死[できし])なので、確率の低い「弾けない」という方(壊れかけながらも何とか浮いている船)にすべてを賭けてみたのだ。アメリカの低所得者は、悲惨な老後(荒れ狂う海)を回避するためには、ローン(難破船)に賭けるしかなかったのだ。どちらの場合も賭けに負けて、予感通り、船は沈没した。
だから、長期不況もバブル景気も、同じところに原因がある。アベノミクスのおかげで株価が上がった、と思って喜んでいる場合ではない。われわれが嵐の中、沈没寸前の船に乗っているという問題は、いささかも解消していないのだ。バブル景気のときの方が、船が少しばかり長持ちしそうな気分がするだけである。
ならば、どうすればよいのか。船を放棄しても破滅に至ることはない、十分に安全だということを、何らかの仕方で示すしかない。この船を捨てても、これこれしかじかの方法で海に挑むならば安全だ、というその方法を提案しなくてはならない。海水浴の楽しみ方を提案する前に、海が安全であることを証明し、納得させる方が先だ。思うに、ほんとうの政治の主題はここにある。
経済政策というのは、いずれ沈没することになる船が沈没する日を、何日間か延期するためにはどうしたらよいかを考えることである。われわれが政治について考えるとき、経済政策しか眼中にないのは、われわれが他に考えることがないほど安泰で、余裕があるからではなく、逆に、一方で、危険な荒海のただ中にいることを直感しつつ、他方で、そのことから目を背けようとしている証拠である。
とするならば、政治が真になすべきことは、どのようにしたら船を放棄してもこの荒海の中で破滅に至らないか、それを構想することではないだろうか。そこにこそ、経済からは独立した、政治に固有の主題がある。
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